FC2ブログ

オンラインサロンオフ会のテーマ第1回から36回まで

オンラインサロンについてオフ会でどういうことを話しているのか聞かれたのでこれまでのテーマを紹介します。
なお、次回第37回は2020年9月22日で、テーマは「大学について」(自分の経験や大学の存在意義など。参考文献「大学とは何か」
吉見俊哉 岩波新書

3年間にわたってたくさん話してきたなあ、と思います。

第36回「デカルトからベイトソンへ」読書会
近代合理主義の乗り越え

第35回:占星術
2020年7月20日(日)

第34回:読書会(『アート鑑賞、超入門』)
2020年6月6日

第33回:東京私のおすすめスポット
2020年3月22日

第32回:読書会(裸の王様)
2020年1月26日(日)

第31回:来年、あるいは来年以降ししたいこと、してみたいこと、なってみたいもの
2019年12月22日(日)

第30回:現代は時代の大転換期なのか?
2019年11月30日

第29回:旅の効用
2019年10月26日(土)

第28回:シェイクスピア
2019年9月29日

第27回:7月8月で初めて知ったこと、発見
2019年8月31日

第26回:自分の好きな詩、あるいは歌詞
2019年7月14日

第25回:触覚・嗅覚
2019年6月22日(土)

第24回:自分の推し哲
2019年5月26日(日)

第23回:現代における東洋思想
2019年4月28日(日)

第22回:ファッションと思考
2019年3月24日(日)

第21回:沖縄
2019年2月24日(日)

第20回:「さよなら自己責任」(新潮新書)の読書会
2019年1月20日(日)

第19回:2018年、一番心が動いたこと
2018年12月22日

第18回:「そもそも」(新潮社)の読書会
2018年11月25日

第17回:自分の好きな漫画を紹介、PRする
2018年10月28日

-----------------------------
★シナプス運営終了→DMMサロンに移行
ホームベースがTuuli Bar&Dining(トゥーリ バー&ダイニング)にうつる
-----------------------------

第16回:恋愛って何?友情って何?
2018年9月30日
場所:Tuuli Bar&Dining(トゥーリ バー&ダイニング)

第15回:最近驚いたこと
2018年8月26日

第14回:自分の好きな音楽、興味ある音楽
2018年7月29日
https://salon.dmm.com/165/posts/19478

第13回:自分の好き嫌いの起源をたどる
2018年6月24日

第12回:メディアをどう捉えるか
2018年5月20日(日)

第11回:自分の尊敬する人
2018年4月22日(日)

第10回:「シェア」と「私有」
2018年3月25日(日)

第9回:多数決
2018年2月18日(日)

第8回:自分が感動した本、影響を受けた本、人に勧めたい本を1冊選んで発表する
2018年1月28日(日)

第7回:学ぶこと
2017年12月17日(日)

第6回:自分はなんで生きているのか
2017年10月22日

第5回:いじめ
2017年9月30日(土)

第4回:ネットにおける情報の受け取り方
2017年8月20日(日)

第3回:居場所
2017年7月2日(日)

第2回:オーバーワーク
2017年6月11日(日)

第1回:子どもの頃に読んだ本
2017年5月28日(日)

オンラインサロンについてはこちら
https://lounge.dmm.com/detail/1256/
スポンサーサイト



デカルトからベイトソンへ オフ会36回のレジュメとして

第36回オンラインサロンオフ会 「デカルトからベイトソンへ」(1981年翻訳1989年復刊2019年)読書会のためのレジュメとして

前近代から近代合理主義へそしてその限界から新たな方向へ

近代にいたるまで長い期間、人々は世界の中に自分を没入させる(参加する意識)によって人間が世界と関わってきた。
つまり、自然の要素としての人間、集団の一員としての自己という考え方が基本であった。
ところが、デカルトあたりから始まる近代合理主義は、私と私でないものを区別し、人間と自然を区別し、精神と意味を区別し…というように自分を世界から隔てることを通して世界と関わってきた(参加しない意識)。つまり、あらゆるものを自分(主観)から切り離し対象(客観)として扱うようになったわけだ。そのおかげで科学は大いに進歩し、我々はその恩恵を受けて生活している。

しかし、現在この近代合理主義は行き詰まりを迎えている。40年前に書かれた本書で予言されている「コンピュータ化されたマス・メディアと情報交換から成る、システムにがんじがらめに縛られた世界」となってしまっている。「そのような世界は多様性と自由を妨げるものであり、権力を持つ一握りのエリートの支配のもとに全地球を均質化するものだ」という指摘も当てはまっているだろう。もちろん、環境問題、核の問題なども近代科学の産物であるし、コロナの蔓延もテクノロジーがグローバル化を促進した結果だ。また、近代合理主義と親和性の高い資本主義の行きついたところが、社会の維持可能性を危うくしている経済格差でもある。
だからといって安易に前近代に戻ればいいというものではない。世界との新しい関わり方、新しい認識論が必要ではないか、というのが本書の趣旨である。

本書では、この可能性を考えるヒントとしてポランニー「暗黙知」が挙げられている。
暗黙知とは簡単に言えば、言葉で合理的に説明しきれない知ということで、身体的知性(自転車に乗るなんていうのも含まれるだろう)、第6感的知性(オカルト的と受けとられかねないが)を含むものである。「西洋の伝統的な知のモデルは、経験から自己を引き離すことによって、知識が得られると唱える。だが、この例(初めはシミにしか見えないX線写真の像が練習を積み重ねると、次第に焦点を結び、胚芽見え症状が見えてくるという暗黙知の例)では、経験の中に自分を埋没させるまで、X線写真が意味を帯びてこない。自分というものが忘れられ、独立した「知る主体」がX線のシミの中に溶け込むことによって、シミが意味あるものに見えてくるのである。ギリシャ人の言う「一体化」、すなわち肉感的で詩的で官能的同一化が、この学習の核心なのだ」と述べられている。

新しい認識論とは、近代科学を含む統合的な認識論のことだ。医学でいうと解剖学的西洋医学(還元論的=全体は部分の総和である)と全体の流れを重視する(全体は部分に還元しきれない)東洋医学の統合ということになるだろう。近代科学においては、客観的知識という手段が目的化されているが、新しい認識論においては、客観的知識は手段として活用すべきものなのだ。これは、このサロンで「アートの鑑賞の仕方」をテーマにした時に取り上げた「主観を軸としつつ知識、知性を道具として活用することでアートを鑑賞する力が増大する」と述べたことと呼応する。

主観と客観の融合については、自著「さよなら自己責任」でも取り上げた「中動態の世界」(国分功一朗)も参考になるだろう。また、日本の伝統文化の中にそういう要素も見られる。たとえば、能楽では「離見の見」ということが言われている。これは自分の演技を鑑賞者の視点から視て(離見)、さらにその全体を主観的に観察する(見)というものだが、客観とそれを統合した主観という近代合理主義(客観こそ真実だ)を乗り越えていくためのサンプルと考えられるだろう。

 しかし、現実を見ると、40年前に書かれたこの本の目指した方向性に向かってきたのかというと、そうはなっていないように思われる。コロナ禍に見舞われている現在、中世の魔女狩り(感染者を探し出してさらす。感染者はその地域に住まなくなってしまうことさえある)、人柱(不倫を行った芸能人などを集団で(匿名性のもとに)ネット上で攻撃する。不倫ではないが炎上によって芸能人が自殺にまで追い込まれたテラハ事件など)に類似する現象が起こっている。

つまり近代的合理性を超えて次へ向かっているのではなく、むしろ前近代的な群集心理が、それに火をつけることが可能な近代科学・テクノロジーの産物であるインターネットの力を得て復活したように思われる。
これは、このブログで「声の文化と文字の文化」(W.J.オング)について取り上げたことにも呼応する。文字を持たない文化と文字を持つ文化の違いについて、文字を持つようになった文化は大きなアドバンテージ(因果関係やカテゴリー認識を可能にする論理性)を得たが、それとともに文字のない文化(=声の文化)が持っていた豊かさ(叙事詩やコーランに見られるような)を失ってしまった。この本にはそこまでしか書かれていないが、私はさらにネットによるコミュニケーションの発達がむしろ声の文化的要素を備えていることを指摘した。反復性(リツイートによる拡散、それがフィルターバブルを生む)、即時性(ツイッターに「~ナウ」という言葉があふれていたこと)、論理を書いた感情的表現(脊髄反射的言説)、さらには絵文字やスタンプ(感覚的であって論理的ではない)などである。ここにも、近代合理主義の乗り越えではなく、非合理性⇒合理性⇒非合理性への回帰という大きな流れが見られるのではないかと思う。

 果たしてこの現状を乗り越えていけるのか。「デカルトからベイトソンへ」に戻ろう。本書によれば、「現代、私たちはシステムとして居座ったダブルバインドが集団的狂気を生み出している世界を生きている。狂気は我々の世界に遍在しているのである。」これは暗黙知を存在しないものとして切り捨て近代的合理主義の範疇しか認めない世界が陥っているダブルバインドのことをさしている。本書ではヘーゲル的(弁証法的)乗り越えが示唆されている。ダブルバインド(一方をたてればもう一方がたたないが、両方をかなえたいようなジレンマ、ヤマアラシのジレンマがよく例に挙げられるがこれは、互いに近づいて温めあいたいが、近づくと互いの針が刺さっていたい、かといって離れると寒い、という話だ)を乗り越えるために両者を統合させた全体像を創造するのだというわけだ。本書ではベイトソンのイルカの例があげられているが、より高次の階型へ向かうことで新たな知が生まれるということだ。

人間を自然から切り離し、人間対自然という対立項を生み出したのが近代合理主義だが、コロナ禍に見舞われている現在、with coronaという表現で、コロナとの共生というあり方が求められている。コロナをすべて排除したいというのが近代合理主義的な言い分であるが、それは無理なのではないか、ということがこの危機的状況において認識され始めているともいえるだろう。精神と肉体の分離、自然と人間の分離がデカルト以来の近代合理主義の根本にあるのだが、身体の動きが脳を形成する(自著「さよなら自己責任」第8章参照)ということ、人間は自然の中にいて初めて存在するものであるから、自然を自己から切り離してとらえようとすると必然的に自己も物象化の対象となり、自己が自己から切り離されていくことになる、さらに世界は自分とは無関係に成り立つことになり、自分が世界に帰属しているという感覚が失われるということ、を考慮すると、近代合理主義だけで推し進めることの限界、むしろそのような風潮が健全な社会への障壁となっていることが見えてくるだろう。
 
この限界は実は科学の側からも提示されている。数学におけるゲーデルの不完全性定理(一つの系の中にはその系の中の要素だけでは証明できないことがある)であるとか、量子物理学(ハイゼンベルグ 電子顕微鏡を使って粒子を詳しく観察しようとすると電子を大量にぶつけることになるので観察対象自体に変化を及ぼしてしまう、いいかえれば観察する側のやり方によって観察対象が変化してしまう、つまり主観と客観は切り離されるものではなく、主観が客観に介入してしまう)、あるいは本書ではのべられていないが、脳の研究におけるソーシャルブレインズの領域(研究対象としての脳は、その外部の影響を受けるので単一の研究対象として取り扱うのは難しい)、非線形科学(たとえば同期現象)や複雑系科学、カオス理論(たとえばバタフライ効果 北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる)といった分野はこれまでの近代科学絶対主義の限界を示唆しているというわけだ。

本書では近代合理主義批判が徹底的に記述されている。しつこく繰り返すがもちろんそれを排除してオールターナティブを探すべきだと言っているのではない。本書では「人工を糾弾し自然を称揚するのはファシズム・イデオロギーの中心の要項である」とも述べられている。「自然に帰れ」的ラッダイト運動を称揚しているわけではない、ということだ。近代合理主義的思考をすべてだと考えて、それ以外を排除しようとする傾向を批判しているのであり、近代合理主義を道具としてより統合的な知の方向を目指しているのである。方法論としては、たとえば、「情感のアルゴリズム」があげられる。本書から逸脱するが、これは現在の研究でいうと、人類学、心理学に情報工学、人工知能を組み込み、個人と他者を分離するのではなく、関係性のネットワークの中で人間の情感の動きをとらえようとするというような研究を示唆しているものだ。現段階での近代科学の認識論が人間を完全には説明しきれないものだという認識がその根底にある。

最後に本書で近代科学絶対主義批判として書かれている一節を取り上げることにする。

「社会の変化に目をつぶり、自己のなかに閉じこもることで、彼らは逆に変化(社会の崩壊)を促進させているのである。」
この批判は近代合理主義批判の枠を超えて、コロナ禍における生活者全般への批判たりうるのでないか、ということをここで提示しておきたい。

ポレポレ修正2020年6月

ポレポレの訳について指摘をいただいたので、第87刷以降、その部分も含めて以下のように修正します。指摘していただいた方々に感謝いたします。
ポレポレ訂正
P29 2行目
  If they do not cooperate with each other,
and do so routinely over a period of time

⇒ If they do not cooperate with each other
and do so routinely over a period of time


訳例
 例えば、人々が互いに口もきかなかったり、いつも激しく争っていたり、互いに協力しないとか、してもある一定期間だけお決まり通りにするだけだったりする場合には

⇒例えば、人々が互いに意思の疎通をしない場合、常に攻撃的な戦闘状態である場合、互いに協力する、しかもある一定の期間にわたって日常的に協力するというのでない場合には、

p37
訳例
2行目「教師の役割は」→「それは」
4行目「それが」→「文学を読むことが」
「私は考えている」→「考えているからだ」

P35
訳例 最後 「できる」→できるのである
P40
訳例 1行目 「芸術」音楽⇒「本格的な」音楽
P72(修正済み)
プロセス1行目下線の位置 Europeans who 

P80
訳例 現在では、アメリカには → 現在、アメリカにおいては、

P105
訳例 初めは、⇒ 初めは、私は、
P115
訳例
「生まれつきの」性向を攻撃的である⇒攻撃的な性向は「生まれつきの」ものである
P125
訳例 
 しかし、感情の効果的な表現は⇒ しかし、芸術における感情表現は

 このような表現方法⇒このような表現
 あのような方法⇒あのような表現

名著に入る~あなたならどうする?

名著に入りこんでみよう~あなたならどうする?~

名著というのはさすがに長く読み続けられているだけあって、読めば読むほど深く印象でけられるものだ。しかし、改まって名著・古典を読むというのは、次々と情報が流されてきて早く消化することが要求される現代においては障壁が高いものだ。そこでこのシリーズでは、おおざっぱにあらすじを紹介しながら、登場人物に同一化して自分ならどうするかを考えることによって、日常的な世界を超えて別の世界に入っていく、という経験をしてもらいたいと思う。自分とは全く異なる登場人物に感情移入してみたり、自分とは全く違う視点でものを考えてみたり、想定外の状況を描いてみたりすることは、おそらく自分を深めることになるだろうし、想定外の状況に陥った時に役に立つこともあるかもしてないし、なにより自分の生き方ではない生き方を疑似体験してみると楽しいんじゃないかと思う。さらに興味がわいた作品には時間をかけて向き合ってみるとより楽しめるだろう。この企画が新しい体験に向かうきっかけとさればいいな、と思っている。

1 「蜘蛛の糸」芥川龍之介 (前編)
さて記念すべき第一回は芥川龍之介「蜘蛛の糸」
これは有名な作品なので読んだことがある人も多いと思う。芥川は仏教的な説話をモチーフとしてこの話を書き、「赤い鳥」という児童向け雑誌に掲載された。しかしなかなか深い内容で大人が読み込んでみる価値はある。ということで、あらすじをたどりながら作品に入り込んでみよう。

ある日のこと、極楽の蓮池の周りを散歩していたお釈迦様は、ふと池の中をご覧になった。澄み切った水を通して、地獄で苦しむ亡者たちの姿が映し出される。その中にカンダタという男の姿を認める。カンダタは生前大泥棒として人殺しやら放火やら悪業の限りを尽くした男だ。しかしたった一つだけいいことをしたことがあった。

深い林を歩いていると小さな蜘蛛が這っている。そこでさっそく足をあげて踏み殺そうとしたが、「これも小さいながら命あるものに違いない。その命をむやみにとるということはかわいそうだ」と思い返して、この蜘蛛を殺さずに助けてやった、ということだ。

しかし、これは良いことをしたといえるのかなあ。雲を殺すことでお金が得られるならためらわず殺しただろうしなあ。助けた、というわけでもないよなあ、殺さなかったというだけだからなあ。

しかし、お釈迦様はそれを思い出して、良いことをしたのだから地獄から救い出してやろうとお考えになったのだ。極楽の蓮の上にいた蜘蛛が銀色の糸をかけている。その糸をそっと手に取り、地獄の底へ、まっすぐにおろしてあげた。

さて地獄では暗闇の中にぼんやり浮かび上がるのは恐ろしい針の山、あたりは静まり返っていてたまに聞こえるのも罪人たちのかすかな溜息ばかり。様々な地獄の責め苦に疲れ果てて泣き声を出す力さえ失っている。カンダタも血の池の地にむせびながらしにかかったカエルのようにもがくばかりだった。ところがふと頭を上げて血の池の空を眺めると、天井から銀色の蜘蛛の糸が一筋するすると自分の上に垂れてくる。カンダタをこれを見て喜んだ。この糸にすがりついてどこまでも登っていけば、地獄から抜け出せる、いやうまくいくと極楽に入ることさえできるかも、と思ったわけだ。

さて、ここで「あなたならどうする?」(ただしあなたは極悪人カンダタだということは忘れずに!)蜘蛛の糸をよじ登れるかどうかについては、フィクションなので検討しないことにしよう

A これを幸いとして登り始める。
B 登っても意味がない、と糸の存在を無視する。
C とりあえず、試しに誰かを登らせてみる。(話しかけることができれば、だが)
ほかの選択肢があれば教えてほしいな。

Aはたぶん正解なのだろうなあ。実際にカンダタも登り始める。どろぼうだからこの手のことはお手のものだ。どうせこれ以上ひどくはならないのだから、わずかなチャンスでも逃さない、というのは現実社会でも有効な態度だ。
リスクは大きくても、失敗しても失うものはない、という状況ではリスクは考えてもしかたない。無駄なエネルギーコストを控える、というのもこの場合には合わないだろう。そもそも地獄にいてもエネルギーの使い道さえないのだから。

B これは意外に多いかもしれない。たぶん2通りの理由がある。
一つ目。登ったからと言って希望につながるわけではない。さらには登り切れることが可能だとは思えない、という比較的合理的な判断だ。だから無駄な抵抗はしない。無駄な努力はしない、というわけだ。一見冷静に見えるが、やってみなければわからないこともある、ということを経験していないからかもしれない。「トライする前からどうせ無駄だ」と考えてしまうわけだな。確かに明らかにノーチャンスのこともあるし、とても低い可能性を信じこむのはばかげている。宝くじ1等当選を夢みる、とか、絶対空を飛べる、とかね。しかしこの場合は今ここが地獄なわけでおそらくこれ以上ひどいところはない。それを考えるとよい判断ではなさそうだ。失敗しても今以上悪くはならないのだから。

もう一つの可能性もある。チャンスにかける、というのはその気力が残っている場合にのみありうる反応だ。ここで地獄にいるカンダタに感情移入してみよう。地獄での苦しみに慣れてしまうともうあらゆることがどうでもよくなる、いわゆるパンチドランカーのような感じになってしまうこともありうる。よく、「つらいなら会社やめればいいじゃん」とか軽く言ってのける人がいるが、実際には「つらさ」が常態化すると、ほかの可能性など見えなくなるわけだな。ここでのポイントはカンダタが地獄の苦しみをどのくらい長く味わってきたか、ということになるだろう。一定期間以上地獄にいると、行動を始める、脱出する、なんていう選択肢はすでに考えられなくなっている可能性もある。これはひょっとして今の日本人にあてはまる状況なのかもしれない。「よりよい世界」なんて目指す気力もない、とか。

C とりあえず人に上らせる。これはなかなか頭がよさそうだ。先人に例を作ってもらい、それを参考にする。起業を目指すというタイプの人にありがちなパターンかも。しかしその一人目が登りきったところで糸が切れるかもしれない。先に上っておけばよかった、と悔やんでも「後の祭り」というやつだ。誰かの成功例をまねようなんていうのは、状況、タイミングが変わればうまくいかないものだ。成功者といわれる人の自伝を読んだり方法論をまねようとしたって、今や彼らが成功したタイミングではないのだ。

ということで、カンダタは適切に選択してAを選んで登り始めた。 


1 「蜘蛛の糸」芥川龍之介(後編)

登り始めたものの、地獄と極楽の距離は何万里。しばらく上るとくたびれてしまって、もう登れなくなってしまった。そこで、ちょっと一休み、のつもりで糸の中途にぶら下がりながらはるか下を見下ろした。すると先までいた血の池は今ではもう見えなくなっている。この調子だと地獄から抜け出せるかもしれない。「しめた。しめた。」と笑ったが、ふと気が付くと蜘蛛の糸の下のほうには数限りない罪びとたちが自分に続いてありの行列のようによじ登ってくる。このままでは糸が切れて落ちてしまうに違いない、とカンダタは不安になった。

さて、そこであなたならどうする?

A 「おまえらには権利がない!この蜘蛛の糸は俺のものだ。降りろ!」とわめく。
B 「下の人たちはいったん引き返して一人ずつ登ろう。そうしたら皆が助かる」と説得する。
C 休むのをやめてとにかくひたすら登り続ける。

A カンダタはこれを選んでしまった。すると今までなんともなかった蜘蛛の糸がカンダタのぶら下がっているところから、ぷつりと音を立てて切れた。あっという間もなく、風を切って独楽のようにくるくる回りながらまっさかさまに落ちていった。本文では「後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます」という映像的な描写がなされている。
「自分だけが助かりたい」という気持ちがいけなかったのだねえ。
宮沢賢治いわく、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。
自分だけは助かりたいというのはとても人間的だと思う。そもそもカンダタが地獄で改心するわけもないだろうから、カンダタが無意識のうちにこの選択肢を選ぶのは当然の結果だろう。

B これは本当に皆が助かる道を示そうとしているのか、それとも自分だけが助かるために皆を落ち着かせようとしているのか。大体において、権力者、政治家、一部の新興宗教の教祖は後者だな。「皆のため」と言いつつ自分の利益しか考えていない。しかし、まあ「みなのため」という言葉が実に巧みであるので、ついつい説得されて従ってしまう。この状況で、そんな説得ができるならばとんでもない才能だと思うが、そもそも後続の罪人たちは聞く耳を持たないだろう。
このまま進めば皆が地獄に落ちる、っていうのは気候変動の問題に似ているね。先進国が後進国に「君たちのCO2排出を減らせ、そうしないと地球全体が危機的になる」とか言っているみたいなものだ。

C これが多分もっとも適切。とにかく自分が助かるためにできることをする。今、ここの最大の課題に集中する。皆が登ってきたらどうなるか、なんて先のことを考えている場合ではない。どこで糸が切れてしまうかわからないのだから、切れる前に上りきることだけを考える。先のことを憂えず今ここに集中する、というのはほかならぬブッダの教えだ。

そして、エピソード。
一部始終を眺めていたお釈迦様は、カンダタが血の池の底に石のように沈んでしまうと悲しそうな顔でまたぶらぶら歩き始めた。自分ばかり地獄から抜け出そうとするカンダタの無慈悲な心が、その心総統の罰を受けて、元の地獄に落ちてしまったのが浅ましく思われたのだと。しかし極楽はそんなこと関係なく静かに蓮の良いにおいに包まれていたのだ、と。

お釈迦様は99パーセントこうなるとわかっていたのだろうなあ。考えようによっては意地悪な試行だったといえるだろう。カンダタが最後にAを選択するなんて、予測通りだったはず。「やっぱり無理だったか。」悲しそうな顔をしつつも、悲しいわけでもなく、地獄は地獄、極楽は極楽、悟りを開いたお釈迦様としては何の動揺もなく、美しい平穏に戻っていく。もし、罪人たちが極楽にまで登ってこられたらえらいことになっていただろうなあ、と思うと、やはり初めから罪人は地獄に戻されることが決まっていたのじゃないか、それを知りつつお釈迦様は試してみたのだろう、と思うと、割と嫌な感じもするなあ。

楽しい時に「楽しい」と言わせない社会っておかしいよね。


赤ん坊が笑うと周りの人も少し幸せになる。これは人間の遺伝的な、つまり本能的性質。弱い赤ん坊は周りのアシストなしには生きられないし、赤ん坊が育っていかないと社会も持続的にならない。

誰かが楽しいと自分も楽しくなる、楽しさは共有すれば増大する。誰かが苦しいと自分も苦しくなる、苦しさは共有されることで軽減することもある。一緒に笑ってくれる人、一緒に泣いてくれる人がいると、人は孤立感を避けることができる。社会生活を維持するために重要な共感能力、これも本能的なものであって、共感能力をベースに人は社会生活を維持してきた。

ところが、今、例えば僕が「楽しい」とか「楽しかった」とかSNS上で発言すると、その発言に傷つく人もいるし、その発言に怒る人もいるし、その怒りを正義の名のもとにぶちまけ仲間を募って攻撃を始めようとする人さえいる。これはどうしたものか、と思い、いくつかの例を考えてみようと思う。

たとえば、「結婚しました」「子供ができました」「子供が成長しました」というFacebook上での友人の発言に対して。結婚したいのにできない人、子供が欲しいのに子供ができない人、たちが発言者のことを無神経だと言う。しかし、発言者がそれに気を使って発言しなくなる、というのはどうなのだろう。また、SNS上で自他を比較する人は鬱状態になることが多いということもわかっているし、Facebookを使えば使うほど人生に満足できなくなりやすい、ということもわかっているわけだから、発信者のことを無神経だと言って攻撃する暇があるならば、さっさとFacebookをやめればいいだろう。発言者としては、発信頻度が多すぎると顰蹙を買う、ということはあるだろうけど、うれしいことを発言して「いいね」をもらうともっと幸せな気分になれるのであれば、発信を遠慮することはなかろう、と思う。それを見てうれしさを共有する人だっているのだし。
(参照記事)https://gigazine.net/news/20191004-quitting-facebook-less-depressed/

次に僕がよく炎上させちゃうパターン。社会のムードにそぐわないタイミングで喜びなどを発言する場合。社会への批判、考察などに対する発言に対して、反発、反論、罵詈雑言が来るのはまあそれはそれとして、たとえば台風で被災状況が明らかになる中で、自分が楽しかったことについて書いちゃうときの反応。まあ、自粛を要求するわけだ。人の苦しみや悲しみが想像できないのか」とか、「自分だけよければいいのか」とか攻撃してくる例のやつ。僕は空気読まないからなあ、しょっちゅうこの手の攻撃を食らっているよ。台風のあと、出張から帰って、家族は無事でしたというコメントと家族の写真をアップした芸能人に対して、「行方不明の人もいるのに幸せアピールしんどい」と言った批判の声があがる。そのインスタグラムでは「台風による被害がこれ以上拡大しないよう、一日も早く復興することを願います」と書いているのに。たぶん、批判者たちは台風被害の当事者じゃないんじゃないかな。暇なのか。

まず、「自分は楽しい、と思うのはいいことじゃないか」というのは当然のことだ。(もちろん「自分さえ楽しければそれでいい」とは言っていない)また、楽しい時に「自分は楽しい」と発言することには何の問題もない。ただし、悲しみにくれる人が隣にいる場合は発言を控えるほうがよいだろう。では、はるか遠くに悲しみにくれる人がいる場合はどうだろう。たぶん、「楽しい」と笑顔で発話することに問題はない。要は距離の問題だ。もちろん、ネット上では物理的に遠くにいる人にも言葉は届くだろうが、それにしても距離感の問題といえるだろう。

たとえば、「今日のご飯おいしかった」とFacebookに書き込んだとたんに、「今、飢餓状態にいる人は世界(日本でも)に多くいるのに不謹慎だ」という攻撃は飛んでこないだろう。「金持ち自慢しやがって」という妬みから攻撃をしてくる人はいるが(そういう人はすでに残念な人であって、先に書いたようにきっとSNSをやめる方が幸福感を得られるはずだ。でも、攻撃的な言葉でストレスを発散することで、さらにストレスをため、さらに負の言葉の発散によって解消しようとしていくうちにストレスがさらに高まり、ますます不幸になっていくということになるのだろう)、彼らは、視野を広げれば「吉野家の牛丼うまかったぞ」でも、理屈上、同様の攻撃対象になるはずだとは思い至らない。「俺たち庶民」の外部に「食事も満足に取れない人」が日本にもたくさんいるということが見えていないわけだ。きっと「俺たち」が世界の標準なのだな。想像力の問題かな。

台風の話に戻してみよう。「不謹慎だ」とか言う人は大体において被災当事者ではない。被災者の代弁者のつもりではいるのかもしれないし、被害に心を痛めているのかもしれないが。じゃあ、世界中で常に起こっている悲惨な災害についてはどうなのだろう。そこに当事者性を感じ取り、共感しないものは不謹慎だというならば、いつであっても「楽しい」という発言ができなくなることになる。
まあ、簡単に言うとどこまで当事者性を感じているか、どこからは見ないことにしているか、ということに尽きるわけだ。

自分にとって都合のいい当事者性と正義感で誰かを攻撃するのはいかんと思うな。
 



味わう準備

2018年12月15日「さよなら自己責任~生きづらさの処方箋」(新潮新書)が発売されます。
これは小説新潮に連載していたコラム「そもそも」を大幅にリライトしたものですが、テーマ的に本書の
趣旨の流れに合わないコラムをブレイクタイムとして中に入れる予定でしたが、本書をよりストレートで
すっきりしたものにしようということで、コラムを二つ割愛しました。以下はそのうちの一つです。


ブレイクタイム① 


味わう準備はできているのか?


フグを美味しく食べるには
 

ぼくにとっては天然のトラフグは最高にうまいものなのだが、よりによってフグの季節に友人に言われた。「値段が高いわりにうまいとは思えない」その時は、「好みは様々だよね」と返したが、そのあとで色々考えてみた。
 There is no accounting for tastes「人の好みは説明できない」(蓼食う虫も好き好き)ということわざがある。確かに、個人、あるいは文化や環境によって好みは大きく変わってくるのだろう。しかし、そこで思考を停止しないで、順に考えてみようと思う。

 フグのうまさはどこから来るのか。舌に長く残る強力なうまみと噛んだときの弾力のバランス、これがフグのうまさの基本だ。うまみはアミノ酸系の成分(グリシン、リジンなど)、なかなかかみきれないほどの弾力はゼラチン質の多さによる(フグは魚類の中でもゼラチン質が非常に多く、しかも細かいコラーゲンが密度高く詰まっている)。前者はさばいたあと、時間の経過とともに増えるが、後者は締めた直後から減っていく。新鮮なフグにはうまみが足りないが、寝かしすぎると弾力を失ってしまうのだ。両者のバランスが大切なわけだが、ぼくは、さばき終わってから二四時間から三〇時間くらいがベストだと思っていて、よく行く店ではいつもそうしてもらっている。

 刺身でフグのうまみを感じ取るには、よくかむことが重要だ。かんでいるうちに、うまみ成分がしみだしてくるからだ。かむときも、できるだけ奥歯を使い、できれば口の中で右から左へと動かしながら両方の奥歯を使ってかむようにすると、うまみが口いっぱいに広がり、舌に長い余韻を残すことになる。こう書いているだけで、唾液が出てきた。あまりかまないで飲み込んでしまう、すぐにお茶や酒など味の強いものを飲む、というような食べ方ではフグを味わうことはできない。食べ方を知って初めて味わうことができるものなのだ。

 しかし、食べ方以前に課題がある。それは味覚、特に舌がどのような状態であるか、ということだ。ヒトは、舌にある味蕾という器官(一〇日間隔くらいで生まれ変わっていく)で味を感じ取り、ニューロン(神経細胞)を通して脳で味を知覚している。味蕾が強い刺激を受け続けると弱い刺激に脳が反応しにくくなる。日本人の味覚はとても繊細だと言われているが、日常的に、いわゆるジャンクフードを食べている人の味覚では繊細な味を楽しむことは難しいだろう。もちろん、なにをおいしく感じるかは個人差、文化間の差があるだろうし、その時の体調にもよる。疲れているときは甘いものを欲するだろうし、汗をたくさんかいたあとは塩分を欲するだろう。また、ジャンクフードを美味しいと感じる味覚を否定しきるつもりはない。しかし、それは人が本来持っている味覚ではなく、人工的な強い味を習慣的に受け取ることによって麻痺させられた味覚なのだとは思う。本来のその人なりの味覚を取り戻すにはファスティングをしてみるといい。一週間ほど水と添加物を使っていない酵素ジュースだけで過ごすと味蕾は敏感になる。様々なミネラルウオーターの味の違いくらいは、すぐに感じ取れるようになる。つまり、一度リセットすることで、自分の本来の感覚を取り戻すのだ。この感覚をもてば、ファストフードは刺激的ではあるが、味わう対象ではないと実感するようになるだろう。こうしてようやく食べ物をより深く味わう身体的な準備ができるわけだ。もちろん、準備ができてから食べるべきだ、と言っているのではない。食べてみて、興味を感じたら、もっとおいしく食べる方法を考え始める。そこで、よりよく味わうための準備を始めればよい。

五感で味わう
 
これまで、五感のクロスオーバーについて何度か取り上げてきたが、味覚も五感すべてで受け取るものである。ウインナーソーセージのバリっという音が味覚に影響を与えている、といえばすぐに納得できるだろう。視覚や嗅覚の影響は特に大きい。記憶や事前知識、環境によっても影響を受ける。例えば、赤ワインを飲むときには、どのような色であるか、香りはどうかが飲む前に情報として脳に伝えられる。さらに、どのレベルのワインなのかということや、どういう空間でどのようなグラスで提供されているのか、という要素も大きく影響する。テイスティングの訓練を受けたソムリエでもこれらの要素によって判断を間違える、という実験結果は多数報告されている。

ちなみに、苦味や酸味は大人になるにしたがって、経験を積み重ねることによっておいしいと感じ取るようになる味である。苦味は毒物、酸味は腐敗のシグナルであり、人間の体にとって警戒しなければならないものだ。これらは、そもそも、有害な物を判断し、避けるようにするために必要なのだ。子どものころに、酸味の強い酢のものや、苦みの強い野菜などが嫌いだったのは本能だったわけだ。苦みや酸味は経験によって味わえるようになる味覚なので、コーヒーやワインを味わうには、必然的に訓練が必要だということになる。もちろん、味わいたいという衝動を感じる体験がきっかけとなるのだろう。

このように考えてみると、フグを本当に味わうには、まずはフグを味わいたいと思える出会い方をすることが出発点であり、その上で、人工調味料などによって麻痺した味覚を本来のものにもどし、心身が健全な状態で食に臨み、美味しく感じられる環境を選び、フグを美味しく食べる方法を知っていることが必要だ。もちろん経験を重ねることも大切だ。食べる回数が増えるにしたがって、味わい方も熟練していくのだ。北大路魯山人はフグについて次のように語っている。

 ふぐの美味さというものは実に断然たるものだ――と、私はいい切る。これを他に比せんとしても、これに優る何物をも発見し得ないからだ。
 ふぐの美味さというものは、明石だいが美味いの、ビフテキが美味いのという問題とは、てんで問題がちがう。調子の高いなまこやこのわたをもってきても駄目だ。すっぽんはどうだといってみても問題がちがう。フランスの鵞鳥の肝だろうが、蝸牛だろうが、比較にならない。もとよりてんぷら、うなぎ、すしなど問題ではない。
(『魯山人の食卓』グルメ文庫、角川春樹事務所)

あらゆるものは味わえる
 
ここまで、飲食の話をしてきたが、これは飲食に限った話ではない。たとえば、音楽に反応する能力は人間に先天的に備わったものだ。言語獲得のためにはメロディーに対する感受性、リズムに反応する身体性が必要だからだ。しかし、訓練することによって、より深く味わうことができるようになる。バンドをやっている人たちだと、自分の楽器パートだけを聴く、ということをやるだろうが、これをオーケストラでやるととても面白い。すべての楽器パートを別々に聴いたあとで、全体を聴くとその重層性に感動する。全体の構成を意識して楽章ごとに位相を考えて聴く訓練をすると、モーツアルトの交響曲のすごさを思い知ることになる(交響曲じゃなくても、K.516〈弦楽五重奏曲第4番ト短調〉など、初めの旋律だけでも感動するけど……)。
 
絵画でも直感で感じ取ることは大切だが、歴史を知り、鑑賞訓練を積むことでより深く味わえるようになる。能・狂言、文楽といった伝統芸能になると、味わうための訓練は不可欠だといえるだろう。訓練をしていない人が、能は退屈だ、というのは率直な感想であるが、それはその人が能を味わう準備ができていないからだ、とも言える。
 
これは、ぜいたく品、嗜好品やハイカルチャーに限った話でもない。日常的に接するもの、家具や生活雑貨、衣服などに関しても、興味を持って知識を増やせば、その奥行きの深さを感じることになるだろう。自然環境の中にある草や木や川や山も同様だ。どのようなものや、どのようなことでも、興味をもったことについて思考を深めれば、味わい深さを見出すことになるのだと思う。普通の人が見たらつまらないと思われる石ころでも、鉱山学者がみるとそこにいろいろな情報が詰まっていて、興味の対象となるかもしれない。話がそれるが、石ころといえば、竹中直人の映画初監督作品「無能の人」(つげ義春原作)を思い出す。主人公は川原の石を集めて売ろうとするのだが、もちろん売れない。主演でもある竹中は「僕、無能ー!」と最後に叫んでいたが、それぞれの石ころに個性を見出すのは「無能」とは言い切れないのかもしれない。

 ここまでをまとめると、味わいたいものに出会い、好奇心を持ってその対象に関する知識を獲得し、その知識を対象と照らしあわせる訓練をすればするほどに、深く味わえるようになり、楽しみがましていくということだ。訓練といっても、好きになったものをより深く味わうための訓練なので、その訓練自体も楽しみになる。もちろん、社会的には、自分がおかれた社会・経済的環境(貧困・災害・飢饉・戦闘などなど)のために、味わうための訓練どころではない人たちが多くいる、ということこそ重大な問題ではあるのだが……。

本と会う、人と会う準備
 

人の言葉の受け取り方、読書についても同様だ。一般に人は、誰かの言葉が分かりにくい場合、あるいは本の内容がわかりにくい場合は、話し手、書き手のせいにしがちである。もちろん、話す側、書く側が相手にとってわかりやすく表現しようとすることは必要なことだ。しかし、表現の仕方の問題ではなく、そもそもある段階に達していないと理解できないということは多くある。たとえば、どれほどわかりやすい数式であっても、日常的に数式に慣れていない人には理解できない。しかし、数式の場合は、理解できない人は素直に自分のせいだと認めるだろう。これが言葉になると、理解できないのは自分のせいだ、とはなかなか思えなくなる。言葉は日常的に自分が使っているものだから、自分にはどんな言葉でも理解できるはずだと盲信してしまうのだ。しかし、たとえば、大人にならないとわからないことは、どれほど子どもにもわかる言葉を使って説明しようが、子どもには理解できない。歳をとって経験を重ねて初めてわかることもあるからだ。自分の知力のフレーム内にない対象は理解できない。理解するには、フレームを広げるしかない。予備校講師をしていて「もっとわかりやすく説明してください」と言われ、「いや、どう説明しても、君にはわからない。その話題を出したぼくが間違っていた」と答えて、生徒にキレられたことがある。ぼくも、フェルマーの最終定理やポアンカレ予想をどれほど丁寧に説明してもらっても理解できないだろうし、それと同様のことだと思ったが、「すまないが、ぼくには君にわかるように説明する能力はない」と謝って事なきを得た。最近も、編集者に「とにかく、わかりやすく、を第一に考えて書いてください」と言われて、「どう書いても、わからん奴にはわからんのだ」と、グレてみたこともあった。ごめんなさい。しかし、この頃「わからない」ことへの恥ずかしさや自責の念を全く感じず、自分がわからないのは伝える側が悪いのだ、という逆ギレや、「ややこしいことはわからないでいいだろう」という開き直りをよく目にして、諦めに似た感情を抱くことも多い。
 
このように考えると、古典を味わえない、という場合には、それが古臭くて時代遅れだからではなく、読む側に準備ができていないからだということになる。何も必ず古典を読むべきだと言っているわけではない(とはいえ、アメリカの大学生が、課題として与えられる本のトップは、いまだにプラトンの『国家』だという。大学生には古典を読むことが必要だと認識されているのだろう)。ただ、長い歴史を経て多くの人に読み継がれてきたものには、それだけの価値があるのだろうし、その価値を感じ取れないとすれば、自分がその段階に達していないからだ、と判断するほうが妥当だと言っているのだ。あるレベル以上の言葉を受け取り理解するには、意識的に言語力を鍛える必要がある。もちろん、訓練すればするほど楽しめる範囲も広がっていくし、深く味わえることになる。

ぼくは、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー/新潮文庫)を、中学生の時に初めて読んだが、人間関係と物語の進行にばかり集中し、アレクセイへの共感・憧憬の念を抱き、フョードルやドミートリイには嫌悪感しかなかった。何回か読み直してようやく、社会や信仰のあり方、登場人物それぞれのあり方をゆっくり考えながら読み、作品自体を味わえるようになっていった。中学生の頃には、まだ、ドストエフスキーを読む準備ができていなかったのだろう。今では、ドミートリーにも結構共感できる。
 
実は、人と会うにも準備が必要なのだと思う。人の言葉やあり方を受け止め、人のよさがわかるには、場合によっては訓練が必要なのだ。予備校で教えることになった年に、有名な先生方の講義を見学させてもらった。その中に、かなり多くの生徒が集中していない講義があった。寝ている生徒もかなりいる。講義は、英文を解析するというスタンスではなく、うまい日本語訳を提示するというスタンスだった。これでは、英語を読む力自体はつかないだろうし、得点をあげたい生徒が退屈するのも無理はないなあ、と感じた。その後、同じテキストを使って講義するようになったが、ぼくは英文を解析して、どの英文でも同じシステムで読めるようにする、というスタンスで講義し、生徒たちの支持を受けた。しかし、ある時、ふと思った。自分のやり方で生徒の学力はつくし、生徒は満足してくれているが、後々のことを考えると、余韻と疑問を残す講義のほうがよいのかもしれない。美しい訳文を提示して、自分の訳とのギャップを感じさせる、しかし過度に説明はしないで、そのギャップは生徒自身が考えなければならない。そのスタンスを味わえる段階に達している生徒が少なかったのが残念だっただけで、当時のぼく自身もその講義スタイルを味わう準備ができていなかったのだろうと思う。味わう準備ができている生徒にとってはすばらしい講義だったのだ、と今ならばわかる。

 人に会う、というのもそういうことなのだろう。ある人の面白さ、深さを感じ取るには、その対象を味わえる準備ができていることが必要なのだろう。誰かを面白くない、と感じる時には、自分がその段階に達していない、という可能性もあるのだ。「私の言葉が理解できないのは、きみの準備不足なのだ」とか、「私を認められないのは、君のレベルがまだ低いからだ」とか、言ってみたい誘惑にかられるが、そうではないかもしれないし、そもそも相手がその言葉の真意を理解できない可能性も高いので、無用に人の神経を逆なでしないようにしよう、と自重している。何はともあれ、会うべき時に会うべき本や人に会えることはとても幸せなことだ。そして、出会った本や人を、しっかりと味わえるための準備をしておくほうが、偶然の出会いによって人生の奥行きが広がることになるだろう。準備をしていないと、せっかく宝物が目の前に現れても気づかないだろう。実は日常生活は宝物にあふれているのかもしれないのに。

LITALICOフォーラムの感想 part1

LITALICO フォーラム「青年期から成人期の発達障害支援の現状と課題」に参加して
(2018年11月4日東京大学本郷キャンパス)
part1

午前中の熊谷晋一朗さん(東京大学先端科学研究センター准教授)による基調講演
「当事者視点から見る青年期以降の発達障害支援~そのケモノ道から学ぶもの」をベースに当日の感想などを書いてみます。

 なお、熊谷先生の話に私の社会認識、感想を加えながら書いているので、これは講演の要約ではなく、文責は私にあります。

まずは医学モデルと社会モデルのちがいについての説明がありました。
 医学モデルというのは、障害は当事者の内部の問題だとして、治療、リハビリを通じて、障碍者を健常者に近づけようというアプローチです。1970年代はこのアプローチしかなく、障害者は健常者に近づかなければ社会で生きていけないと考えられていました。脳性麻痺である熊谷先生自身も子供の時期に回復の見込みもないのに厳しいリハビリ訓練を続けさせられたと語っています。しかし、1980年代以降、社会モデル、つまり障害は障害者と社会の接合がうまくいかないことから生じるのだから、社会の側が変化することによって障害者が等身大のまま生きていけるようにできるはずだという考え方がでてきます。

 たとえば、科学技術の進歩によって障害者と社会との接合面をなめらかなものにすることは可能です。眼鏡やコンタクトレンズが簡単に手に入る現在では、近視を障害だと考えている人はいないでしょう。障害をテクノロジーの力によって障害でなくする、ということはある程度まで可能でしょう。

現代では医学自体も医学モデルアプローチをとっておらず、個人の可変性の限界と社会の可変性の現状を考慮しつつベストミックスを探るというアプローチになっています。
つまり両者の適合性を個人の中に障害があるのだからそれを治療して健常者に近づける、ということだけが解決法だとは考えられていないわけです。

しかし、日本の社会を見渡すといまだに医学モデル的考え方に基づく差別が横行しているように思われます。健常者ができることをできないくせに、というような発言も多々みられますし、社会の側、自分の側ではなく、障害者の側にのみ問題があるという考え方も敷衍しています。できれば接触したくない、関わりたくないという排除的姿勢をパブリックスペース(電車など)で見かけることも多いです。目に見える障害に対する差別に対しては健常者のマインドセットの改善が必要でしょう。おそらくそれには啓蒙活動よりもちょっとしたナッジが有効かと私は思います。具体的に有効なナッジを今思いついているわけではありませんが。
 
ところが自閉スペクトラム症のように目に見えにくい障害に対してマインドセットを変えることはさらに困難です。そのような症状がおこってしまうのだということを理解していないと、社会的コミュニケーションのとりづらさは相手の性格の問題で簡単に治せるはずだと思ってしまいがちだからです。

社会的コミュニケーションがうまくいかないことについては、障害を持つ少数派の側だけに責任を帰すのではなく、少数者と多数者のあいだに障害が起こっているのであり、それは行動の予測誤差への感度の問題としてとらえることによって、コミュニケーション障害の解消が可能になります。ここでも科学技術的アプローチは有効です。たとえば認知ミラーリングシステムによって、自閉症の人には環境がどう見えているか、を体験することができます。当事者が感じ取っている雑踏の音、光の刺激などを、VRを通じて体験すると環境に対する反応の違いを実感でき、当事者の感じ方を共有できます。他者(この場合当事者)が抱えている問題を知ることが、社会の中の一員として、みながそれぞれに自分らしく生きることの第一歩になるのです。 part2に続く
 

スタンウエイCD75 by TAKAHIRO HOSHINO

干野宜大(ほしのたかひろ)さんのピアノを二日続けて聴いた。一日目は瑞江のフレンドホールで、二日目は石橋メモリアルホールでいくつかは同じ曲を連日で聴くという体験をした。石橋メモリアルホールでの演奏はヴィンテージニューヨークスタンウエイCD75という1,912年製のピアノ。ホロヴィッツが最も愛したピアノとされていて、今もその当時のコンディションを保っているのは世界でこの1台だけだということだ。現代のピアノとは全く異なる音色、パワーで、同じ曲を連日で聴いたおかげでピアノの違いがよくわかった。バイオリンも同様だが、これほど技術が進歩している時代において、より素晴らしいピアノが生まれてこないというのも不思議な感じがするが、素材と技術の問題なのだろう。ちなみに、皮革製品や木材も昔に比べて素材の質が極度に落ちているのは、とても残念なことだ。
 
石橋メモリアルホールでの演奏の感想を少し。前半はスカラッティから始まり、モーツアルトのピアノソナタへ。これは様々な演奏を聴いた結果、グレングールドとファジル・サイの演奏が気に入っていて、しょっちゅう聴いているのだが、干野さんのような解釈は初めてだった。念のためホロヴィッツの演奏も聴きなおしてみたがやはり干野さんのような解釈はしていなかった。この音をピアニシモにするの?ここでスピードを変えるの?これに一瞬空白、間をいれるの?など驚きがいっぱいだった。ある部分をピアニシモで弾くだけで曲全体がいたずらっこのようなかわいらしいなものになり、間をうまくとると音楽に新たな色彩が加わり映像的なものになるのだと感じた。
 
そしていよいよベートーベンピアノソナタ「アパショナータ(熱情)」これはルービンシュタインの演奏を聴きなれている。昔のピアノフォルテを使った演奏も打楽器感があって気に入っている。で、干野さんの演奏、これははじめの音から衝撃的だった。CD75とはこんなにパワフルな音が出るのか!乾いたピアノならではの深い音色。こんなスタンウエイ聴いたことがない。音の塊を脳髄にたたきつけられているよう激しい演奏に、途中から心臓がバクバクして呼吸があやしくなった。穏やかなパートに入ると心臓のバクバクはおさまったのだが、なんだか涙が流れていた。ここのパートに感動しているわけじゃないのだがなあ、と冷静に思いながらもただ涙が流れていた。そして最終パートへと向かうと再び音の嵐。最後の鍵盤をたたいた勢いで上半身がのけぞりそのまま立ち上がるエンディング。演奏が終わったとたん立ち上がって歓喜の叫びをあげそうになったが、タイミングを失って座ったまま拍手をするにとどまった。

休憩をはさんで後半。前半とうって変わってとてもリラックスできる楽しい演奏だった。最後のハンガリー狂詩曲13番は連日で聴いたが、思い切った編曲で、いろいろな楽器や町のざわめき、通りでのおしゃべりなどのイメージが次々に浮かぶとても視覚イメージを喚起する曲になっていた。聴いていてニコニコ笑顔になり、ときに声を出して笑ってしまいそうになるような演奏だった。アンコールは、事前にこっそり聞いていた通り、モーツアルトトルコ行進曲ジャズバージョン。これもグールドとファジル・サイの演奏をしょっちゅう聴いている曲だが、ジャズ編曲は新しい曲としてスイングしていた。別の曲のモチーフも加えとても気持ちが躍動する演奏、とても楽しい余韻を残して終了した。
 CDでは味わえない生演奏の良さを存分に味わった二日間だった。やはり事件は現場で起きているのだなあ。

「モヤモヤする」について考えてみた

「モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ」(宮崎智之)を著者に送っていただき、様々なエピソードを楽しく読ませていただいた。しかし、「モヤモヤする」という言葉がどうもピンとこなかったので「モヤモヤ」について少しだけ考えてみた。

まずは「モヤモヤ」とはどういう感じなのだろう。僕自身は自分の感情を「モヤモヤ」と表現したことがなかったので調べてみた。
「モヤモヤ」という言葉を使ったことがなかっただけで、「モヤモヤ」で表現される感情を頻繁に経験しているのかもしれないと思ったのだ。
 
「もやもや」とはもやがかかったような状態を指し、「もやもや病(Moyamoya disease)」は、脳底部の異常血管網がたばこの煙のようにもやもやしてみえる病気だ。「モヤモヤする」とは、対象に、もやがかかっていてはっきり見えないもどかしさを感じている、という状態のことのようだ。あるいは何らかのわだかまりがあって心がすっきりしない、という状態も表す。時に、色情がむらむらと起こるさまを表すこともあるが、おそらく「モヤモヤする人」という場合、そういうことを表しているのではないだろう。
 
調べてはみたが、どうも自分は「モヤモヤ」を感じることが少ないようだ。なぜ自分は「モヤモヤ」しないのだろう、と考えてみた。様々なことをはっきり割り切っているから、というわけではない。「賛成反対どっち?」などと言われると、どっちというわけでもない、というようなことはたくさんある。どうも納得がいかないが、周囲に合わせておく方が無難だから不本意ながらもそうしておこう、というようなケースも多々ある。では「モヤモヤ」に近い状態ではないか、と思われるだろうが、本人は「モヤモヤしている」とは感じないのだ。
 
こうして書いていると、だんだんわかってきた。なぜ「モヤモヤしている」と感じないかというと、僕の場合「モヤモヤしている」のがデフォルトだからだ。ずっと霧の中にいる人は、それが普通の状態であって、たまに霧が晴れると感動するが、それがあるべき状態だとは思っていない。また、その状態は自然に表れるものであって、自分の意志によって作る状態だとは思えない。たまに訪れるラッキーな現象であって、だからこそ「霧が晴れた」と言語化するわけで、デフォルト状態をわざわざ言語化して表現する必要はない、と感じているのだと思う。

僕にとって「生活する」「生きる」というのはモヤモヤした状態の中で、これといったはっきりした答えに行き当たらないまま手探りし続けることなのだと思う。霧がかかっているからこそ、周囲の状況に敏感になる。視覚だけに頼れないからこそ感覚全部を研ぎ澄ます必要が生じる。五感全てを使いながらゆっくりとおぼつかない足取りで進んでいく。視界が悪いからと言って進むのをやめてしまえば生きている実感を失ってしまうだろう。そんなわけで僕は「モヤモヤ」を感じないまま、「モヤモヤ」の中で生きていくのだろうなあ。はっきりとした視界を力づくで得ようとするのはどうも危うい気がするし。
 

流れていく日常の中で、立ち止まる勇気を持とう

レールの上を歩いているという幻想


日々の生活や、目の前の仕事に精一杯で、毎日気がつくと眠る時間だ。自分らしく生活しようとしていながらも慌ただしさの中で何となく流されていっている気がする。政治や経済のニュースを見て漠然とした不安は増大するが、今ひとつ身近なことには思えない。AI技術の進歩によって、時代の変化が加速していると言われても、自分がどうしたらいいのか見えてこない。今ある仕事の半分がAI技術に取って代わられるというが、周囲も自分と同じように生活しているようだから、とりあえず今は見ないことにしておいてもいいんじゃないか、と思う。AIによって新たな職も生まれるだろうし、いざとなったら考えることにしよう。自分だけが頑張っても、どうなるものでもないし。頑張ろうとすると、今まで歩いてきたレールを踏み外してしまいかねない。
 そんな感じで生活している人はけっこういるのではないか、と思う。実は、ぼくもその一人だ。しかし、既存のレールが続いていくというのは幻想だ。

 やりたいことが見えているならば今すぐ踏み出す(「準備が整ってから」では期を失う)


そうではなくて、自分にはどうしてもやりたいことが今ある、という人は、即行動することが大切だ。スキルなどは走りながら体得すればいい。準備を整えてから、とかいうのはいいわけに過ぎない。そして新しいことを始めるための準備が整ったりはしないものだ。思い切って走り出せば環境も変わるしチャンスも生まれやすくなる。だから、新たな領域に思い切って飛び込んでいこう。ネットが普及した今では、支援者を見つけるすべもたくさんある。ただ、いわゆる社会的に成功した人たちの後追いはしない方がいい。成功ストーリー的な自己啓発本など即捨ててしまうことだ。時代は急速に変化しているのだから、やり方をまねることに意味はない。新たなことのためのレールなど敷かれているはずもない。

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎「道程」))という精神で道を切り開いていってほしいと思う。ちなみに、この詩については、できれば初出の全文(「高村光太郎全集第19巻」筑摩書房)を読むことをおすすめしたい。最終的には最後の1小節だけが作品として残されたのだが、それに至る長い記述はとても感動的だ。この最後の小節の直前にはこう書かれている。

 「歩け、歩け
  どんなものが出てきても 乗り越して歩け
  この光り輝く風景の中に踏み込んでゆけ」
やりたいことがあるならば、行動を起こすことが大切だ。Z世代の起業についての記事などを読むと、なおさらそう思うし、それを応援するのが僕たちの世代の役割だとも思う。

やりたいことがみえないならば

しかし、今、どうしてもやりたいことがあるというわけではないが、今のままでいいと思っているわけでもない人は、一度立ち止まってみよう。実は「道程」の中にも以下のような部分がある。

「僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た」

ここでは、歩こうとしても歩けなくなってしまった状態が書かれているが、何となく歩いている状態を意識的に中断して、一つところに立ち尽くしてみることにも意味がある。ペダルをこぎ続け続けていなければ倒れてしまう自転車に乗っているような生活の中で、あえて立ち止まるには勇気が必要だ。しかし、立ち止まって振り返ってみること、今の自分の立ち位置を確認してみること、そしてこれからの時代に向けて自分の姿勢を立て直すことが、必要な時期もある。オフラインの時間を作ってゆっくり考える時間をつくってみることで、日常の情報フローをデトックスするのは有益だ。日常から離れて自分の過去や自分の置かれた環境について考えてみると日常見失っていた様々なことに気づくだろう。

僕たちがいま・ここにいるのはたまたまである


「そもそも」という連載コラムで「ぼくたちがいま・ここにいるのはたまたまである」という書いたことがある。(この連載は相当加筆修正して12月に新書として出版される予定だ)。ぼくたちは、自分の意志が関与しない状況で、産み落とされ(be born「生まれる」は受動態だ)、たまたま与えられた環境の中で育てられてきた。自分の力で生まれ、自分の力で育ってきた人間などいない。考えてみると、生まれてから大人になるまでに、親を含め周囲の人や環境からとても多くの「借り」を受けてきたのだと気づく。当たり前のことだが、普段はなかなか意識しないことだ。

 特に社会的に「成功した」人は、自分の努力と才能によって成功したのだと思い込みがちだが、実は運も必ず関与しているし、インターネットや交通システムといった社会の既存のインフラの恩恵を受けているはずだ。いわゆるセルフメイドパーソンはアメリカンドリームの理想とされてきたが、「セルフメイド」など幻想に過ぎない。
しかし、だからといって「借り」を返さなければいけないという義務感に駆られてしまうと、あまりにも不自由な人生になってしまうだろう。親に借りた「借り」は違う形で次世代に返せるようにすればいいし、社会に借りた「借り」は社会に返せばいい。誰もが完全じゃないわけだし、自分のできないことは気兼ねなく人に助けを求め、人のできないことで自分のできることは手伝ってあげよう、という意識をもって行動するだけでコミュニティはより健全なものになるだろう。「もちつもたれつ」世の中は回っているものだという当たり前のことを常に念頭においておきたいものだ。

大人の学び


はじめに書いたように、今、時代は大きく変わろうしている。たとえば、AI技術がどこまで進歩するのかは今判断することはできない。しかし、シンギュラリティという言葉を乱発して無駄に不安をあおる論調から身を離しておくことは必要だろう。不安は売れる、これが出版界の常識だからだ。しかし、おそらく確かに近い将来に今ある仕事の半分くらいはAIに取って代わられるだろう。メガバンクが採用を減らし、早期退職を募っている現状を見ればすぐにわかる話だ。これについては、AIが得意とする領域でAIと勝負しても勝ち目はないのだから、AIが苦手とする領域でAIとの共存を図っていく必要があるという認識が必要だ。AIに仕事を奪われても新たな仕事ができるだろうと楽観主義者は言う。新しい仕事は確かにできるだろうが、それはAIが苦手な領域に位置づけられる仕事になるはずだ。つまり、推論力、共感力、コミュニケーション能力、創造力、想像力といった現在の学校ではまともに教えられていない分野の能力を高めることが必要になる。だからこそ、大人になってからも「学ぶ」ことが必要なのだ。もちろん、知識習得、技術習得を「学び」と言っているのではない。「学び」とは、学ぶ楽しさを再発見し、自分から一度離れ、自分を破壊し、更新することで他人との関係を見直し、変化に対応しうるしなやかさを取り戻すことだ。

犬も歩けば棒にあたる


立ち止まって「学び」を経験し、一呼吸置いたら、自分の道を模索し、思い切って歩き出してほしい。「自分の道」が見つからなくても焦らなくていい。何かを学ぶと、身の回りの人間関係を少しだけ変えてみようとか、新たなことに挑戦してみようとか思えるようになっているだろう。そうした小さなことから始めてみれば、道は見えてくるものだ。 

身の回りのこと、人への対し方を新たにするという行動を起こしつつ(この時点ですでに歩き始めていることになる)、ゆっくりと自分の道が見えてくるのを待てばいい。早く道を見つけたいとか目標を定めたいなどと思う必要はない。ともあれ、歩き始めてみることだ。目的が見えなくてもかまわない。歩いていると目的が生まれてくることもある。決まった目的に向かって歩くよりも楽しいかもしれない。人生いきあたりばったり、もいいだろう、と僕は考えている。「犬も歩けば棒に当たる」というが、棒に当たるのはラッキーかもしれないしアンラッキーかもしれない。しかし、ともあれ一歩ふみだすことでで新たな変化のきっかけに出会うことにはなるだろう。

人生いきあたりばったり、この文章もいきあたりばったり、みたいな感じだなあ。

もう一度「身体で書くクリエイティブライティングワークショップ」

この日の総括がまだ終わりません。最後に書いた小説の書き出しは1万字を超えていて、よくあんな短時間にこんなに書けたものだと思いました。今丁寧にリライト中で、最終的には100枚を超える作品になりそうです。
それとは別にミュージックからのインプロビゼーションライティングはこんな感じでおこなわれました。
音楽を聴く、聞きながら思いつくイメージを書き始める。多分3分くらいで書ききるという課題。
テーマ曲は以下の一部、入り方が大分異なっていますが(ジムノぺデイ(エリックサティ)のメロディの前までが流れされた、と思う)
https://www.youtube.com/watch?v=abM7hAZ5BTc&list=RDp7nbwWNGcXQ&index=2
インプロビゼーションライティング
  僕が誕生したのは海の底だった。僕は音もなく光もほとんど届かない深海の一部だった。ある時かすかに太陽の光が届き始める。海水に熱が生じ、静止していた水が揺れ始める。ゆるやかな鼓動の始源。光が波の中で揺らめく。そのとき、生命が胎動し始めたのだ。僕の中に僕という意識が生じる。海底という空間を共有しているものたちの存在を感じる。波の韻律は、はじめは規則的に、やがて規則を逸し、ときに不協和音を交えながら変化していく。小さな泡がかすかにきらめきながら上昇していく。波に揺られながら僕も海面へと上昇していく。水温が上がっていくのを感じる。

なんでこういうイメージが浮かんだのは今となってはわかりませんが、音楽を聴きながらそれを文章に変換していくインプロビゼーションライティングは、自分が偶有性の媒介になったような感じで面白かったです。

身体で書くライティングワークショップ

先に書いた「身体で書くライティング」のワークショップでは、次々と課題が出されそれに応じて短時間で書くというワークがあったのですが、その一つに子どもの頃書いたものを思い出して書いてみよう、という課題がありました。
45年から50年ほど前のことを一生懸命思い出そうとしましたが、昔の出来事は思い出しても自分が書いたものを思い出すのはなかなか困難でした。しかし、一つ思い出すと次々に記憶がよみがえってきました。
 そして思い出したものに一貫性があることに気づいて、思い出す回路が今につながるようになっているのか、本当に昔から今まで一貫しているのか、どうなのだろう、と思いました。
 思い出したのは、概して自然と人工、曲線と直線、無菌状態と汚れのようなことを書いた記憶でした。
 「部屋から見える景色を描こう」という学校の宿題に対して、私は自分の団地のすぐ目の前にある同じ形をした団地の絵を描きました。完全に無個性で無機質な直線だけの建物を定規でサイズを測り画用紙に余白なく正確に再現しました。ただし人が住んでいる気配などはすべて排除して。その絵は先生に怒られたのですが、なぜ怒られたのかいまだによくわかりません。色を塗らなかったからか、直線しかなかったからか、手を抜いたと思われたからか…
 同じモチーフで文章を書いたこともあります。10歳くらいの頃かな。
「人工的な直線だけの道路。直角の交差点。ぼくのからだは曲線なのに。」
「かぶと虫が40匹かえりました。虫と土のにおいがします。部屋の白い壁に土をぬりつけてみました。お母さんはそれをみて、そうなのね、とだけいいました。叱られると思っていたのに。ぞうきんで拭けともいわれなかったので、その壁には土のあとがずっと残っていました」 
「木から落ちました。血をなめたら金属の味がした。」
こんなことばかり書いていたわけではないと思いますが、こんなことを書いていたということばかり思い出しました。小学校の卒業文集でも(震災でなくなってしまいましたが)、
未来の人工的に漂白された町の姿を書いていました。白、直線、人工的な緑地、音のしない車などについて。山でウリ坊を追いかけて遭難するような子どもだったので、無菌状態の環境への嫌悪感が強かったのでしょう。
大人になってからは「直角に曲がれ、覚悟を決めて」(吉増剛造だったと思う)というような言葉に感動するようになりましたが、それは自らのぬるい現状への不満が強かったからなのだろうと思います。

身体で書くクリエイティブライティング

先日「身体で書くクリエイティブライティング」小野美由紀さん主催ワークショップに参加してきました。休憩を挟んで10時間に及ぶワークショップ。
午前は身体を使って、身体の動きによる閉塞感の解放、つまり、気を発散して巡りを良くする。次に他者の身体に触れ共調し、さらに協働する、つまり身体的コミュニケーションによる自我の解放。主観と客観の境界が溶解されるような動きによる他者との融合感覚、さらには個が集まって集合体を意識し全体に同化してみることによる個の環境への融和と環境との交通といったことを順に行いました。これによって自他の障壁への意識を減らし内外に流れを作ることによる動的平衡状態の実感が得られます。
午後は、絵、音楽から感じることを即興でストーリー化するなど脳を刺激する練習。さらにそれを互いに見せ合うことで自分の環世界への自覚と多様な環世界の存在の許容を促す。私は音を聞いた時に浮かぶ色のイメージが多様なのに驚きました。私は音と色のイメージはかなり数学的に結びついたものでありそれほど恣意的なものではないと思っていたからです。
最終的に内面を言語化し表出する実践へ。内面に様々なことを抱えている人たちがそれを身体的に言語化しようと格闘することで自らが浄化され、時に同じようなトラウマを抱え込むものをも浄化していくという現場に居合わせることができてよかった。書くという行為自体の癒し効果。実は私自身も「そもそも」で一度経験していました。自己表出による浄化、話すことでも音楽でもダンスでも可能なことなのでしょう。社会の中で生きているとそれだけで澱みのようなものがたまっていくものだから、時々浄化しておくほうがいいのだろうなあ。

オンラインサロン「ポレポレ現代社会トーク」オフ会第12回

オフ会12回「メディアをどう捉えるか」のためのメモ書き

メディア論とはマーシャル・マクルーハンによると「内容それ自体より伝えるメディアの形が重要であるとする」考え方。
そもそもメディアとは媒介なわけで、情報を媒介するもの全般と考えられる。
情報メディアはマスメディア、ミドルメディア(数千から数万までが対象 いわば閉じた系)、パーソナルメディアという3つに分類される。私たちがSNSで発信する場合、もちろん私たち自身もメディアなのだという意識は必要だろう。そして、メディア批判する場合には、批判する自分の言語がメディアによって形成されている要素があるので、批判対象から距離を置ける言語を使うようにすることが大切だ。
マスメディアには、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、SNSなどが含まれる。
新聞、雑誌がSNSに押されていることはいうまでもない、が、それは文字を読んで考えるというロジカルな思考行為が損なわれ、視覚情報、断片情報に反射的に反応するという行為が優勢になりつつある、という事態と平行している。だからといって文字、論理リテラシーの復活をうたうのは現実的に厳しいだろう、と思われる。フェイクニュースなども文字情報だけによるよりも映像を加えることでより脊髄反射的に伝達されるものとなるだろう。

 媒介は紙からPCへさらにはモバイルへと移行しており、モバイルへの加速は急激でインドでは月に700万人が新たな携帯契約をしている。そうなると情報の発信受信ともにモバイルというフォーマットに合うが優位になるというのは言うまでもない。携帯を利用するときの場所の制約性のなさはもちろんだが、身体的な要素も考えるべきだろう。携帯では新聞を一瞥するように広い視野で眺めることは難しい。ビジネスモデルとして断片化され視覚的インパクトを生む情報提示の仕方が優位になっていくわけだ。PCが果たしていた役割の多くを携帯が果たすようになるという変化はメディアの変化にとどまらず、情報発信受信のありかたに大きく影響していくだろう。ビジネスとして考えた場合、モバイルに適した情報発信をできるモデルを考えたものが先行していくだろう。私が、今ここに書いているような長い文章は情報としてはもはや化石のようなものだ。
 現在のネットニュースのありかたを見る限り、新たな方向に向かうビジネスモデルが確率しつつあるようには見えない、過渡期なのだろう。しかし、ニュースを伝えるという点におけるメディア全般にあるべき一貫性という点で見ると、ジャーナリズムの劣化は目を覆うばかりだ。ここに、マスメディアの問題点を列挙してみるので、気になる点、引っかかる点があれば、メモしてあとで話題に取り上げてください。
1 権力との癒着(特に日本では大手メディアの代表が政治家と食事するなど)
2 記者クラブというお友達組織(大本営発表にしかなりえない情報入手)
3 言語の定型化、常套句化。テレビのニュース番組など「舌鼓を打っていました」「子どもたちが躍動していました。」などなど、ニュース用の定型的言葉遣い。
言語はとても重要なのだが、その言説の仕方の定型化は情報そのものの中身のなさを露呈している、これは発信者の匿名性(つまり誰が発信しても同じこと)にも関わる。発信者の責任が回避されるからだ。
また、このような常套句ばかりが埋め込まれたニュースは見る価値がない。何も批評性もないからだ。天気予報ならばもちろんそれでいいのだが。
 4 ①,②の点で見るとテレビより、ラジオのほうが権力との距離は、権力による制約をうけにくい。ネットもそうであるはずだが、意外に権力的センサーシップが働いており、
政治的利用は容易なメディアであると言える。メディアが政治との癒着あるいは政治による圧力によって独立的ジャーナリズムの機能を果たしえないのと同様、新聞がテレビを批判できない(テレビ局と同系列であるから)という現状も共倒れになる様相を呈している理由だ。私はラジオというメディアの可能性(ミドルメディア的)に注目している。

5 情報の信頼性
速報 性、 情報 の 信頼 性、 ソース への アクセシビリティ、 などなどの要素があるが、 内田樹は情報の価値を「その 情報 に アクセス する こと によって、 世界 の 成り立ち について の 理解 が 深まる か どう か」においている。理想主義的ではあるが、ジャーナリストが考慮すべき要件だろう。第一次情報へのアクセスとそのコストを考えると二次情報的ネットメディア(パクリともいう)が増えている現状は仕方ないのかもしれないが、クラウドファンディングなどで支えていくことができればよいだろうなあ。情報は無料で提供されるものだという意識は払拭すべきだろう。

6 物語的構造
  いわゆる弱者憑依。
   マイノリティー側にたった報道をしておけば共感が得られ、批判されにくい。しかしそのときマイノリティーは個別性を越えて記号化されている。これはネットでも同様だ。
しかし、はじめはそのスタンスをとるにせよ、事後の調査およびメディアの中立性は必要だろう。

7発信者の匿名性
再び内田樹の言葉を借りると、「少し でも 価値判断 を 含む もの は、 政治 記事 に し ても、 経済 記事 に し ても、 その コンテンツ の 重み や 深み は、 固有 名 を 持っ た 個人 が 担保 する 他 ない と 僕 は 思う の です。   けれども、 僕たち が 今 読ま さ れ て いる、 聴か さ れ て いる 文章 の ほとんど は、 血 の 通っ た 個人 では なく、 定型 が 語っ て いる。 定型 が 書い て いる。」内田 樹. 街場のメディア論 (光文社新書)
もちろん、匿名性が大切な場合もある。「保育園落ちた、日本シネ」のような発言だ。
しかし、ジャーナリストの発言は今以上に署名記事に向かうべきではないか。

8メディアは社会的共通資本か 
ビジネスとして割り切ってよいものなのか?
社会共通資本として、医療・教育や電気道路などのインフラと同様に利潤追求の対象として市場的条件に左右されてはならない という原則を守るべきなのか?
ビジネスとして割り切るならば、消費税免除を訴えるのは筋違いであるし、それを訴えるならばビジネス以上に重視すべきことがあるのだという自覚を持つべきだろう。
9メディアは事件、戦争が好き 
そりゃそうだ、「今日は昨日と同じように平和な日でした」じゃニュースにならん。もしかしたら、メディアが取り上げるために事件が起きているのか?つまり何でもないことを事件化して扱っているのか?しかし、パーソナルメディアならば事件なき伝達も可能になるので、ミドルメディア、パーソナルメディアでそういう個人発、世の中の普通さ、良さを伝えることが増えていく方が社会の安定につながるだろう。ただし、でっち上げられたちょっといい話、では意味がない。

では、各人、メディアについて思うことを述べていきましょう。⇒ 各人の発表とそれに対するコメントなど、今回もかなり盛り上がる議論が展開しました。

皆の発言中、私が特に関心を持ったテーマは、「雑誌」というメディア、0年代と現代のネット空間の違い、文体論、メディアから距離をとって批判的に見る方法、インスタなど視覚的情報による文字のない文化への退行、といったあたりでした。
 次回は6月24日14時半、テーマは「自分が何にはまってきたのかの歴史を記述する⇒自分の好き嫌いの起源をたどる」
好き嫌いについては人は直感で決めてそれ以上思考しないことが多いのだけど、自分史的に掘り下げて、それを他の人と共有することで新たな発見があるのではないか、という回です。次回は参加メンバー一人につき二人まで知人を連れてきてくれてよいという形にしてみます。参加申し込みのときに同伴される方の名前、人数を伝えてください。

ゲンロンカフェ5周年イベント

ゲンロンカフェ5周年イベントに行ってきました。ゲンロンカフェというのは、哲学者東浩紀主催の主にトークイベントを行うスペースです。ゲンロンでのトークは、予定調和的に行われるものは稀で、通常はテーマについてトークしながら思わぬ方向に話が進み、観客、ネット視聴者は登壇者の思わぬ発言に刺激されそこに参加しているという臨場感、一回性を味わえます。今回は5周年と言うこともあって、これからのゲンロン背負っていく4人を四天王と名指して、東浩紀含めて5人でトークするという豪華なイベントでした。
「批評とは何か」「これからゲンロンはどう進んでいくか」というのが基本的なテーマとして掲げられ、トークは19時から休憩をはさみ、非常に盛り上がって深夜1時まで続きました。もちろん終電は終わっています。私はそのあと4時半までゲンロンカフェで観客や登壇者と話しながらワインを飲みました。
 様々な話題が飛び出し、それぞれに考えるところはあったのですが、ここでは自分にとって特に興味深かった部分、思考のきっかけになった部分にしぼって書きます。

 まず批評とは何か。東浩紀はツイッターで「カタカナを並べて、直観的には10秒でわかるようなことを小難しい文章で書き、自分の賢さをアピールするのが批評ではない。批評というのは、それを読む前と後では作品鑑賞やコミュニケーションの仕方が変わり、世界が変わるものじゃなければいけないのだ。」とつぶやいている。つまり、机上の空論におわるものであってはいけないし、仲間内で言語を共有すればよいというものでもない、あくまでも言葉が現実と接する実践でなければならない、ということだ。そのことによって現実の中に新たな価値を生み出すのだ。であれば、当然、社会的現実、社会通念、あるいは政治とぶつかりあうことになる。つまりは批評とは読者に社会に刃を突きつけ世界を切り開こうとする行為だと言っても過言では無いだろう。刃を突きつける以上、相手も命がけで攻撃してくる覚悟が必要だ。
 東浩紀は、おそらくはその覚悟ができていなかったのであろう若い登壇者(批評再生塾というゲンロン主催の評論家育成コースの第一期総代)に、覚悟のほどをせまっていた。(この登壇者は、最近のイベントで真っ向批判してきた相手に対して戦うことを放棄して逃げてしまった、ということだった。私はその場にいなかったので判断できないが…)
 トークでは東浩紀はボクシングに例えてこう言う。「批評は格闘技であり、相手に痛いと思わせることが必要だ。自分が先に痛いと言ってしまったら負けだ」さらに、実践とスパーリング(白ワインを飲みながらついついスパークリングと言ってしまっていたのは面白かった)はちがう。ヘッドギアをつけて想定されたルールの中でスパーリングを行うのと、本気で殴り合うのとは違う、さらにはボクシングの例を逸脱して、ルール無きケンカみたいなものだ、とも。それは一人で引き受けて戦うケンカであり、誰かに代わってもらうことも、誰かに頼ることもできない。戦い方は様々にあるはずだ、と。
 その登壇者は音楽(ヒップホップ系)批評を行っているのだが、東浩紀はこう言う。ジャンルの応援をするような文章を書くな、自分は何が好きで何が嫌いなのかから書け。その原点こそが社会との接点になる、と。つまり、NOなものにはしっかりNOと言え、というわけだ。ことを荒立てたくない傾向がある若者には厳しいだろうが、確かに自分の感受性を自分の肉声で語ることからしか人を動かす言語は立ち上がってこないだろう。私自身、その登壇者の音声の発し方そのものについて疑問を感じた。ほぼ一定のスピードで話し、音程が上がって息継ぎをする。音程は上がるが強度があがるわけでもない。呼吸が浅く、単調で弱々しい印象を与える話し方だった。音楽をやっているならば呼吸を深くして腹から声を出し、自分の話し方の速度、音程の変化(時に意識的に下げる)、アタックの強弱(時に十分な間をつくるなども)を意識したほうがいいだろうなあ、と思った。これはトーク後、本人に個人の感想として伝えた(ちなみにヒップホップについて質問した観客の発話にヒップホップ的音楽性を感じた。決してヒップホップ調で質問したわけではないのだが、スタッカートのような音節の区切り方、リズムと抑揚が音楽的で話す内容を引き立てていた。音楽的な話し方を身につけるとヒップホップを語る説得力がもっと得られるのだろう)。また、譲歩的発言をする度に東浩紀に叱られていた。大人になってからあんなに叱ってくれる人はいないだろうなあ、とうらやましく感じたくらいだ。東浩紀曰く、「失敗を指摘されたとき言い訳はするな。炎上すると言い訳など機能しない」さすが経験者である。さらには「話し始めて3秒で空気を変えろ」といいつつ自ら実践してみせた。これができないと僕の職業では生き残れなかったというのは言うまでもない(あくまでも昭和の頃の予備校においての話だが)。大勢の人を引きつけるように話すにははじめの数秒が勝負なのだ。
 批評は「ユリイカ」や「群像」に書くことではない、というのも納得できる。つまり世間での評価を求め仲間同士支え合って安定を得ようとするなど、批評たり得ないということだと思う。そもそも西洋哲学はソクラテスの死とキリストの死を原点としており、後者は若きメシアが権力者に殺されるという図式、前者は老人が大衆(アンチ)に殺されるという図式であり、それが原点である以上現実と接するときの悲劇は運命づけられている。東浩紀は特に前者に注目している。確かに後者は自由と権力という歴史的に繰り返されてきたわかりやすいヒロイックな構図だが、前者は一見わかりにくい。社会に影響を与える以上、変化を望まぬ一般社会(それが通常は多数派となる)から排除される危険性を伴うはずだ、ということだ。つまり、世界を切り開こうとするものは世界によって切り刻まれることを覚悟しなければならないのだ。ここに「批評とは何か」についての東浩紀の明確な解答がある。自分がものを書くときに常に座右においておきたい意識だと思った。
 話は変わるが、トークを聞きながら僕は「孤立と連帯」ということを考えていた。「連帯を求めて孤立を恐れず」というのは東大紛争時に言われたとされている有名なフレーズだ。東浩紀が批評は一人で戦うことだ、と言って塾生たちが群れようとしたがる傾向を批判していた時にこの言葉を思い出したのだ。昔、平林たい子は「しょせん、雑魚は群れたがる」と言い放った。かっこいい台詞だ。確かに批評は、自分の戦いとして自立して行わなければならないものだ。戦っている最中に相手から目を離して誰かに助けを求めるなんてできない。捕食される動物が群れることで自分を守ろうとするのは、自然界においては正当な自己保存行為であるにせよ、自ら戦いをしかけるべき批評においては認めがたいのかもしれない。しかし、人は他者と出会い異化作用を起こすことでより強くなることもあるし、集団で狩りをするのは単独行動よりも有効だ。それぞれが自立できる力を持ちつつ共闘することは有効だろう。たとえば、ドゥルーズ・ガタリは単独ではなしえなかったであろう共著を残している。ガタリがドゥルーズに異化作用をもたらしたわけだ。今の塾生が単独で天才東浩紀に追いつくことは極めて難しいだろうが、それぞれのジャンルに卓越した3人か4人がチームを作ることで全体として総和を越えて創発が起こり新たな境地を開拓することは可能だろう。反則してでも戦えといわれた彼は、いつかタイマンというルールさえ逸脱して仲間とともにリングにあがって合体した姿でたった一人の東浩紀をボコればいいのだ。
ちょっと言い過ぎた…
少し残念に思ったのは、東浩紀は何度も、内輪の世界に閉じこもるな、外の世界とぶつかれ、と言い続けていたのだが、最後になって、登壇者の一人が客席及び動画視聴者に、次のイベントは絶対見る価値があるから 「おまえら見に来い」というような言い方をした。東浩紀は視聴者観客に「おまえら」という種の言葉を使ったりはしない。視聴者に「おまえら」という種の言葉を使う時点で「おまえら」と言われて違和感のない人、つまり内輪だけを対象にしてしまっている意識が露呈されてしまう。 これは残念な発言だと思った。

 ともあれ、非常に刺激的な時間だった。ゲンロンに行くのはが、僕にとってはある種の観光、未知との遭遇のチャンスみたいなものだ。しかし、まあ、55才になると徹夜が体調的にとても尾を引くものだ、ということもまたまた実感したのだった。
プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

カテゴリ
月別アーカイブ
Twitter
 
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR