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次回講演会のためのメモ~ツイート集~

次回講演会のために思いついたことをツイートしていたのですが、自分自身の構想のメモとしてブログにそのまま貼りつけておきます。ツイートも自分の思考もどんどん流れていくので私自身が利用するためのものとしてそのまま貼りつけるので意味不明な言説もあると思いますが…

とりあえず、講演会の予定としては 
1 仕事とは? 仕事と労働の暫定的区分に基づき労働が仕事になる時、仕事が労働になってしまうときについて実例とともに話します。

2 見たくない現実を見る 失業と解雇の現状 高齢化社会、格差社会、イノベーションが失業を生む、コンピュータが人間の仕事を奪っていくと人間にはどのような仕事が残されていくのか

3、現在搾取されている若者たち~ 働きがいや自己実現という名前で自ら部品となっている若者
  人間関係に縛られる職場環境⇒ 仕事を離れるコミュニティ 自分を包括するコミュニティー
  複数のアイデンティティへの可能性

4、可能性について~仕事をポジティブなものにすること。仕事とは社会との向きあい方であり、ソーシャルキャピタルを創造しうるものだということ。幸福とは?新しい社会作りの方向性。

という感じを現段階では想定しています。しかし、変わるかもしれません。では断片的にツイートをそのまま貼りつけておきます。なお講演会の案内は一番後ろにあります。

私は仕事の外にコミュニティを築けるか、自分を包摂するコミュニティを見つけ帰属するか、が個人としてはキーになると考えています。癒しとはそのつながりへの安心感を得られることかと。社会としては緩やかに個人を包摂できる小集団を包摂する方向が望ましいだろうと

今、そこでそのような仕事への、社会への関わり方をしていることが、弱者切り捨てを促進し、音をたてつつある社会の軋みを助長しており、軋みが大きくなるにつれ自らにもそのツケはまわってくるのではないか。もう少し具体的に説明するつもりではいますが...


とりあえず、マズローの5段階のどこで仕事と向き合う状況かによって変わって来ます。 生存のために卵子を売る人たち、これは仕事とはいえないでしょうが、そのレベルから大卒で大企業しかいやだから就職できないという人まで様々なので一般化できませんが、それも含めて話します

「自己実現」という言葉に踊らされて自らすすんで部品となるものは、自分の身体、精神、社会的スタンスをやがて失うばかりでなく、その会社の社会資本としての価値をも損なうことになる。別の話だが、終身雇用なき時代に出世のために周囲の人間関係に不本意に取り込まれることで失うものは大きい。

それしかない、と思い込んでいることは、実はそうではないのかもしれない。イヤならやめろ、と威勢良く煽るノマド系の人たちもいるが、彼らは責任をとってはくれない。しかし、それ以外の可能性を常に具体的に留保しておこうとすることは、その場に向き合うにも有効だ。

結局、仕事を生きがい、使命感、楽しみとできる一部の人には全力で働いてもらい、かなりの人は仕事との距離感を大切にして仕事以外のことに価値を見出す、さらに一部の人が仕事との精神的距離感を作れるような社会を作る。すべてのあり方が社会的資本となることが大切だと思う。

これは逆行と言えるだろう。子育て休暇を取れる社会じゃないと、日本の可能性は閉ざされていくというのに。現状認識の愚かしさがこういう馬鹿げた時代錯誤を産み落とす。大きな視点を持ち得ない会社に未来はないよ。

昨日、今日とほぼ同じ柄、同じ形のワイシャツを着てみた。着後で汚いなあ。他人はまず気付かないが、2倍以上の値段の差は触れば歴然、着れば圧倒的に違う。更にハンドで作ってもらったシャツは着ると快感、作り手と繋がれる。消してしまいたくない文化。
つまり、こういう仕事がなくなる社会は危険だろうと言いたかったのです。一部の人にしか受け入れられないにせよ、市場が質の高いものを追放することで、失われるものの代価は大きいだろう。文楽も確かに市場への 努力は必要かもしれないが、市場原理で消えていっていいものではないだろう。

その風潮をどう変えるか?変えないとまずいところに来ていると思います。子育ては共同体で支援する、老人ホームと託児、保育園を合体する、企業は社会資本を制度に組み込む、などと。このテーマは講演会で話すかもしれませんし、抜いてしまうかもしれませんが

会社を選ぶ基準にすべきことだ。社会資本をどうみているか?@YummyOide: 同意です。子育て休暇その他と共存できる環境を作っていくことが長期的には企業の未来、国の未来に繋がるのに…。もちろん風土を変えることは簡単ではないと思いますが。とっくに変わっていなければいけない時

積極的に行きたいと思っていないのに行かなければいけないと感じてしまう忘年会がある人は、その集団が自分を不幸にする源となっていることにそろそろ気づくべきだろう。それが会社であるならば、仕事との距離感を作り直そうとした方がいいと思う。仕方が無い、と自己正当化する群れは群れごと崩れる。

自己を掘り進んでいくと普遍に繫がる。普遍とは言わぬまでも他者と共有可能な広い領域に達する。そこに自分らしい仕事が生まれるのではないか?

さらに。社会の中で働いているのに自分の仕事があるいは自分が働くことが社会にストレスを与えるとすれば自己破壊的行為だ。社会のストレスには社会資本の損失も含める。満員電車に乗るストレスは自分も原因であるし、忙しさのせいで他者へのいたわりや笑顔を失うことも社会にストレスを与えている。

影響を与えようとする自己意識は社会にとってストレスです。感謝されたがる人はストレスですよね。相手に自然に感謝される、笑顔になってもらう仕事をしましょう、と言っているのです。私は軽井沢で乗るタクシーの運転手さんは決めています。こちらが笑顔になれるからです。

好きなことを楽しそうに無心にやっている人が近くにいる、というだけでも、社会資本になり得ると思う。愚痴ばかり言っている人は、負の社会資本となるばかりではなく、その気質ゆえに転職するという選択肢を選ぶ思い切りもなくダラダラと自分にも負荷をかけ続けて行く。

言語の究極の目的は隣人の笑顔、と、言い続けてきたが、仕事の究極の目的も隣人の笑顔なのかもしれない。生活手段であることは否めないにせよ。


http://t.co/DNGsqS2b
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京都講演会のための草稿 リライトのため削除、変更した部分

 ツイートで、京都講演会のための原稿があまりにも長くなったので、かなりの部分を削除したとつぶやくと、削除した部分が見たいというリプライがたくさん来ました。
 
このままじゃ9万字を越える量になり、9時間くらいの講演会となってしまいそうなので、テーマから逸脱した部分、専門性が高く一般に口頭では理解しにくいと思われる部分をどんどん削除していったのです。削除した部分と変更した部分を探したのですが、なにしろすっぱり消してしまうと気持ちよかったのでどんどん消し去ってしまい殆ど何も残っていませんでしたが、少しだけ残っていたのでここに載せておきます。

 講演会ではこの中の一部だけを残してテーマに合わせて話すつもりです。

マルクス「資本論」第1巻価値形態論では、搾取の対象として自然も考慮に入れられている。水や空気や化石燃料を自然から借りているならば返す必要があるということだ。自然環境保護の走りとさえいるだろう。

own「所有する」という単語はそもそもowe「借りを負う」という単語に由来するのだということは覚えておきたいですね。私的所有の問題はそこから生じるわけだ。

ケインズ(経済学者ではこの人だけが自由競争の問題点を早くも指摘していた)は、「平均的意見とは、多数の無知な個人の群集心理の産物にすぎない」として投資経済が不安定な根拠しか持っていないことを見抜いていた。

エーリッヒフロム「自由からの逃走」ではこう書かれている。
 
多くのひとびとは、なにかをするとき、外的な力によって明らかに強制されないかぎり、彼らの決断は自分自身の決断であり、何かを求めるとき求めるのは自分であると確信している。しかし、これはわれわれが自分自身についてもっている一つの大きな幻想である。我々の決断の大部分は、じっさいには我々自身についてのものであはなく、外部からわれわれに示唆されるものである、決断を下したのは自分であると信ずることはできても、じっさいには孤独の恐ろしさや、われわれの生命、自由、安楽にたいする、より直接的な脅威にかりたてられて、他人の期待に歩調を合わせているにすぎない。

 われわれはみずから意思する個人であるという幻のもとにいる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。

ついでにオルテガ「大衆の反逆」から抜粋しておこう。

「大衆はただ欲求のみを持っており、自分には権利だけがあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない。われわれはたった一人の人間を前にしてもその人が大衆であるかどうか判断できる。大衆は、自分に価値を見出すことなく、自分をすべての人と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じであることに喜びを感じるすべての人々のことである」

―ネットに群がって匿名性のもと「みなが」とかいいつつ人を批判したり、自分の考えに同意を求めたり、みなと同じに安心したり、週刊誌で誰かをたたいている記事をみつけては喜びを見出す人たちのことね―「エリートの反逆」(クリストファーラッシュ)という本もあって非常に面白い。エリートこそがこのオルテガの言う大衆のようになっているという本だ。

人々が意思決定していくことについてはジョージソロスの言葉もある。

期待と結果の間に剥離があることは相互作用的な譲許の特徴であり、そこでは、参加者は完全な知識を踏まえて判断を下すことはできない。参加者の判断には必ずバイアスがかかっており、そのバイアスが結果を決定する要因の一つになる」ジョージソロス (グローバルオープンソサイエティ)

そうしてここで一番最後に持ってきたいのは、エマニエル・カント(純粋理性批判という著作は名前くらいきいたことあるよね)

「他者を手段としてのみならず目的として扱え」という道徳律

目的として扱うというのは、相手を自由な存在として扱うということで、自分が自由であるために他者を不自由に、自分のための道具にしてはいけないということだ。ここで他者というのはマルクスが搾取の対象として自然という概念にも言及しているように、自然、あるいはまだ生まれていない人も含む。たとえば、環境を破壊して経済的繁栄を獲得するとしたらこれから生まれてくる人間の自由を奪い取ることになる、ということだ。またこの時代にカントは世界共和国という理念をマルクスは世界資本主義の浸透の元に国家の消滅を考えていた。古き時代に、ゆっくり流れる時間と深い森のある国で思索を進めると深い思想が生まれるのかもしれない

自分の生そのものが関係性の中でしか存在しえない以上、コミュニケーションが生存に必要な条件である以上、他者を手段にしてしまうということは、自分自身を手段としてしまうことになり替わるのだ。人を利用して金を集めようなどと言う行為もヒトを手段化しているわけであり、それでは「ヒト」から「人間」(人と人の間で生じる状態)にはなりえない、とさえいえるだろう。

すると言語の獲得のところでも述べた、「人が痛かったら自分もつらいじゃん。」「人から、自然から奪い取るだけじゃ不当でしょ」という基本的共感に戻ってくる。
つまりコミュニケーション能力、感覚の欠如が問題を引き起こしている気がする。ここでも解決は倫理観、もっと簡単に言えば他者、自然とのコミュニケーション能力の問題へと帰するのではないか。と思う。

多様性に向けて―
ただ多様なものが存在するというのではだめだ。おのおのに特異なものを決して還元し漂白することのないやりかたで、際立たせコミュニケートし共通の言葉を捜し、交響していこうとすること。それが重要なのだと思う。


というような部分があちらこちらでバッサリと落とされていったわけです。誤字脱字多謝。

落とすべき部分を落とし切って全体の構成を一つの交響曲のようにしようと努力しながらただいま草稿執筆中です。そして最後は爆発的フィナーレを迎える予定です。お楽しみに。
  京都講演会のお知らせはいくつか前のブログをご覧ください。

講談社トークライブ原稿から

17日のトークライブのための草稿を一部抜粋してみます。


現代は情報が大量に流れている時代です。特にこの10年以内でメディアにソーシャルメディアが加わったことで、また誰もが情報を発信できるようになったことで、情報の量は急増しました。しかも、3・11以降はどれほど多くの情報が隠されているか、あるいは間違った情報が意図的に流されているか、そういうことがはっきりと目の前に浮かびあがってきました。

そうした中で、どの情報を信じたらいいのか、もはや政府の発表も信じられないという深刻な状態に陥ってしまっています。政府の政策や政治の仕方に対する不満はどの時代にもありましたが、政府が発表しているデータそのものが信じられないというのは、国として非常に危機的状況にあると思います。私自身、夏に電力が足りなくなる、というのは本当なのか嘘なのか確信をもって情報を受け入れることができない状態です。

しかし、自分にとって耳当たりのいい情報ばかりをインプットしていくといつの間にかただ踊らされていることになってしまいます。現実と接続できなくなるわけです。自分の「セカイ」(本書でもカタカナ書きにしてあるセカイはその人にとってもセカイで実はとても閉じた小さなセカイであり、とこに閉じこもることはもはや許されないセカイのことです)の中での正当性を助長するばかりです。

あるいは煽情的な情報に危機感をあおられたり興奮したりして、他の視点を失ってしまうと他者にまで悪影響を与える狂ったダンスを始めてしまうことになりかねません。
これは今ネットで猛威をふるっている炎上というやつです。

自ら閉じきった集団、あるいは空想の集団の中に入ってしまっているのですね。「みんなが」という言葉や「けしからん」という言葉で人を糾弾する人は自分はマジョリティーなのだという幻想を抱き、その中にのみ居とどまろうとしているわけです。外部の批判を受け入れず、外部などないと思うか、あるいは外部と判断したものに攻撃を始めるというあり方は貧しいと言えるでしょう。
外部のものにレッテルを貼ることでその中の多様性をみようとしないのは豊かさを甘受できない者の味方だからです。個人にキャラ付けをすることも同様で、個人の中にも多様性があるというのを見失ってしまっているのですね。

日本における「みんな」という言葉の同調圧力はとても強いものがあります。いつだか、服を買いに行った時「これは今年皆さんお買い求めですよ、今年流行りの形です」と言われたのですが、「ならば私が買うものではありません」と答えるとポカンとされました。その反応にこちらがぽかんとしました。なぜ、皆が着ているものを買いたいのか私には理解不能です。

宮大工の西岡常一さんは木の個々の癖についてこう言っておられました。
 「気に入らんから使わん、というわけにはいかんのです。自分の気にいるものだけで作るんでは、木の癖を見抜いてその癖を行かせ、という口伝に反しますやら。癖はいかんものや、というのは間違っていますのや。癖はつかいにくいけど、生かせばすぐれたものになるのですな。それをやめさせ、あるいは取り除いていたらいいものはできんのです。」
個性がでないように合板にしてしまうのは現代の建築ですが宮大工は1本1本の木の特性、10年後にはこう曲がる、とかいうこともです、をみきわめそれぞれに大切にします。すべてを合板にしてしまおうとするのを同調圧力といいます。


言葉たくみな者に踊らされてしまうのも、自らの判断を放棄することでそこに安心感をもとめ安住したいと願う気持ちがあるからでしょう。予備校でも商業的な予備校では、「この講座をとったら安心」「あるいはこの講座をとらなければ落ちるよ」「みんな取っているよ」と講座を薦め営業益を増やそうとします。そう言われると不安を打ち消したくなるのか自分に消化しきれないほど講座をとってしまう。そういう営業をする予備校もあるようです、受験生の不安を利用した商売ですね。

掻き立てられた不安に打ち勝つには、生きているものは不安なのだ、という当然の前提をしっかり認識することです。不安に決まっているじゃないですか、とくに今の時代に生きているものは皆。

自らに麻酔を打って安心感を得ようとするのは自分を売り渡してしまっているとしか思えません。不安と同居しながら、少しずつ不安を減らしていく、あるいは不安で遊んでしまえるともっといい。

絶対安全な平行棒などありません、落ちれば怪我をするから真剣に遊べる、だから楽しめるのです。人生だって楽しまなきゃもったいないですよね。失敗したらいたいけど、こないだの講演会でも引用したのがアルケミストというお話の中の言葉「傷つくのを恐れるほうが実際に傷つくよりもつらいことなのだと自分の心にいってやるといい」
そうですね、傷つかないために、自分に麻酔を打って自らををだますことで安心を買おうとするのは、本当に痛いことなのです。

講談社トークライブいよいよ迫ってきました。できればライブで体感してください。津田大介さんとの対談は何が飛び出すかわからないところが楽しみです。





リンクに表示されるテキスト

imagine! 想像力をもって現実と向き合え

前回の続き、医療と教育と市場原理の話は先にのばします。

先月、地震の前日、20年前の生徒3人と食事しました。新潟校で教えていた時の生徒です。そのうち、二人は紆余曲折を経て去年結婚したカップルで、奥さんになった方とは20年前ぶりの再会でした。男性二人と私とでは何度か食事したこともあり、彼らの人生の転機に話をすることも多かったのですが、今回は自分が年をとったのか、彼らがかわいくて、また、彼らのこの先のことがとても心配になり、なんだか保護者のような気持ちになりました。自分が大學卒業後、就職もしないで、芝居の世界に飛び込んでしまったとき、両親は心配だったのだろうなと、いまさらながら実感しました。と言っても10年ほど前に父親が死んだあと、母親は徐々に元気を取り戻しながら様々なことに挑戦し始め、いまや70歳を過ぎて演劇(素人集団ですが)を始め、舞台は楽しいとかのたまっておりますが・・・

昔の私は「寄らば切る」みたいな殺気を放っていたらしいです。それじゃ授業にならないだろう、と今は思いますが。
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私もずいぶん変わりました。・・・穏やかになりましたねえ・・・

15年ほど前の仙台の生徒は今、被災地をを自転車で走り回り復興への力となりながら、今や、私の妻の仕事にアドバイスもしてくれています。昔の生徒でまだ直接的につながりを持っている人たちもまだまだたくさんいますが、ともあれ彼らと自分が今のような関係性になるとは教えている最中には夢にも思いませんでした。未来への想像力が欠けていましたね。相手が大學を卒業したころに会うと目線が変わるからか、ようやく相手の素晴らしさに気づきます。教壇の上からではなかなか相手は見えないものなのですね。上から見下ろすという物理的環境が相手が見えるということを妨げているのでしょう。下から見ていると相手を見透かせるものかと思うと、教壇に立つことの恐ろしさを感じます。上から見ていると相手は見えてこない、政治家や大企業のエライ人たちには見えていないことが多いのでしょう。

視点を変えるだけでものは違って見えます。他者の視点を獲得することは不可能であるにせよ、自分の視点を動かしてみることは必要でしょう。カイの前に飼っていたシベリアンハスキー(エベルといいました)は大きな犬で、散歩している最中に会う子どもが怖がるとお母さんが「こわくないのよ」と言いました。「いや、子どもの目の高さからみるとかなり怖いと思いますよ」と私は言ったことがあります。子どもの目線から見たシベリアンハスキーは大人の目線に換算すると象の子どもくらいになるかもしれません。象くらいの大きさのシベリアンハスキー、これは怖いですよね。

ピカソの「盲人の食卓」という絵を見て、その指に非常に感銘を受けて、そこからなぜそういう展開になったか覚えていないのですが、数日間目を閉じて生活してみたことがあります。一人暮らしの学生だったので環境的に可能だったのですね。学生の人、そんなバカなことできるチャンスは学生時代しかありませんよ。是非経験してみましょう。

初めは、部屋の中を移動するのも大変でそとに行こうものなら杖代わりのスキーのストックもまったく役に立ちません。食事はパンなら食べやすいのですが、時にそんな私を面白がって見に来る友人がカレーや焼きそばなど差し入れてくれたりもしました。目をつぶっていると、スプーンでカレーを食べるという単純な行為も難しく感じます。彼らには「しばらく目を開けない宣言」をしていたので、いろいろな人がからかいにきました。・・・彼らにしたら面白かっただろうなあ・・・

ところが、3日くらいすると意外に部屋の中、下宿の近所の移動はかなりスムーズにできるようになりました。目を開けていることで鈍っていた感覚が少し鋭敏になったのでしょう。目の見えない人の気持ちが少しはわかるなどと傲慢なことは到底いえませんが、少しだけでも今までと違うものは感じられた気がしました。まだ点字を指で読むことはできませんし、病気で指の感覚を失った人が舌で血を流しながらも点字を読んでいたという話を聞くと私の想像力の及ぶところではなくなります。

足を骨折したときに初めて気づいたのは階段は下りのほうがこわいということ。駅にエスカレーターがつき始めたころは今と違って上りが圧倒的に多かったので、下りのほうが必要な場合もあるのに、と感じました。

というわけで他者の視点を獲得するのは不可能であるにせよ、視点を動かすことで多少、自分以外のものに共感できるようになることは可能だと思います。理解不能性(人のことが理解できる、なんてセリフには脅迫的なものを感じます。「お前の気持ちはわかる」とかあまり話したこともない人に言われたくありませんね)を前提にしながらも、共感度合いを高めていく努力は大切なことだと思います。

東大の今年の入試問題で「他人の痛みは理解できるか」を自由英作文で書かせる問題がありました。今となってはタイムリーな出題です。そりゃあ、理解できないでしょう。しかし、ある程度の共感は可能です。ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの「アンダルシアの犬」という16分ほどのシュールな映画があるのですが、その冒頭シーンでは女性が剃刀で眼球を真っ二つにされます。この言葉だけでうわっと思いますよね。それが共感の原初的状態です。大体誰にもある感情でしょう。

共感はおそらく身体的なもので、合理性に基づく思考方法が強くなった現代という時代にはきわめて必要なものでしょう。身体性の復権は今の時代に必要なことだと思います。身体性を失った概念の一人歩きはいずれ行き詰まり、暴発します。そういう点でツイッターは情報伝達だけではなく、共感をつなげて、力に変えうる可能性のあるメディアだと思います。同じ価値観の人が群れて共感しあう様は外からは見てられない気持ち悪さですが、本人たちには必要なことなのでしょう。とくに震災後の企業家の方々のやり取りにはうんざりしましたが、見る義務もないのにそれを見る私が悪いので言っても仕方ありませんね。


さて、今度の震災では共感が日本中に広がっています。被災者への労りやある種の正義感や義務感から義捐金も多額となり、また、炊き出しのお弁当を5000食も被災者の目の前で廃棄処分したり、援助物資をまともに届けられなかったりする役所的な硬直したシステムへの怒り、東電や政府、さらにはメディアへの怒り、そういった共感が日本に渦巻いています。しかし、その共感が想像力を伴わないまま、共感の強要として暴走すると理性を欠いた言動を生みかねません。「自粛」という名目で他者を監視する視線、「原発反対」「政府や東電はうそつき」などをメッセージソングにすると、その音楽性についての判断はさておき「勇気ある発言」としてほめたたえる人々、そういった共感が正義の名のもとに半ば強要されていきます。・・・まずは音楽として聴こうよ・・・またそれを封じ込めようとする権力が存在するとますます「正義」は助長されます。そこに、noとは言いにくい雰囲気を作り出してしまうのは危険なことだと私は思います。・・・あたしゃ、「セーギ」と大声でいう輩は信じないね・・・

苦しんでいる人を見たら助けたいと思うのは、とても基本的な共感の形です。すばらしい共感です。

しかし、いざ助けようとする場合には知性と想像力が必要になります。ずっと水を飲んでいない人が水を飲ませてくれ、と言ったらどうしますか?

コップ1杯の水を差し出すと、乾いた者はそれを一気に飲んでしまい重大な事態に陥る可能性もあります。タオルに水を含ませ少しずつ水分を与えるほうが賢明でしょう。

あるいは、藤原新也さんが「インドで飢えた子どもに、これで何か買いなさいとコインを差し出すと、そのコインをそのまま喉に入れて死んでしまう子供がいる」と書いていたのを読んだことがあります。善意で与えたコインが与える側の想像力を欠いていたために殺人行為と同様のことになってしまいかねないということです。「善意だったのだ」は言い訳になりません。

想像力はとても大切です。先日ツイッターでこうつぶやきました。

世界各地から救援物資が届いて日本人は感動した。We are not alone.(alone=他と切り離されて)それを聞いて、素直でない英語教師はつぶやいた。Are they alone? (theyはたとえばサハラ以南の子供たち。エイズ孤児1900万人。)

weはtheyの対立概念です。おそらく今日本人が救援の必要を感じている対象は震災の被害者です。その日本では自殺者が10年連続で年間3万人を超えています。震災以前に目の前にあったはずの悲劇。彼らが立ちあがれない社会構造があったのでしょう。 「立ち上がれ、日本」というのは震災前にはなかったフレーズです。

そしてサハラ以南ではエイズの孤児が1900万人、世界中で死んでいく子どもの数は1日に3万人以上で一番の死亡原因は下痢性の脱水症状で1パック10円くらいの経口補水塩でその日は命をつなぐことができます。ユニセフではかなりの広告費をかけてこの実情を訴えてきました。しかし、日本では、今回の地震のような大きな共感はおこりませんでした。(過去形にはしてはいけませんね) おそらく共感力の働く対象、想像力の届く範囲と当事者性といったことなのだと思います。

もちろん、自分が強盗に襲われ刃物を突き付けられているときに、「今、世界のこどもたちは」とか考えている余裕はありません。…マザーテレサは?・・  今回の地震はそういう事態なのでしょう。今、目の前のことが優先されるのは当然です。自分の国なのですから最も当事者性を持つのも当然です。「国家」主義ではなく自らの「国民」を愛する気持ちは大切だと思います。それはいわゆる合理性、理屈で割り切れる問題ではありません。今、リビアで戦争が行われ死者が何人出ようが、目の前で自分の子供が死にかかっていればそちらのほうが大問題です。外国に逃げたほうが安全と言われても、たとえ死ぬとしてもこの国にいたい、という心情を持つ人がいてもそれは合理的ではなくても非難・軽蔑の対象にはなりません。

しかし、外国が自分の国を援助してくれようとしているときに、ただwe are not aloneと言って感動していていいのか、と思います。自分たちは彼らをaloneにしてきたのではないのか?もちろんアフリカの問題は簡単な問題ではありませんし、医療費を募金すれば解決する問題でもありませんが、今、義捐金を惜しまぬ人たちが、今死にゆく子どもたちを見殺しにしてきたというのは間違いではないでしょう。国連が昔計算したところではすべての人が基礎的ヘルスケアにアクセスするのにかかる費用は軍事費の数パーセントだそうです。ただし、この数値を過剰に喧伝するのはヒステリックな旧左翼的アジテーションにすぎず、アフリカの教育水準をあげること、つまりまずは識字率をあげることにより、よりうまく機能する政治システムをつくること、と同時にエネルギーシステムの構築が伴わなければお金だけでアフリカの現状を救えるというものではありませんが・・・

想像力を鍛えること。つまり目には見えないもの(遠くに感じる外国、遠くに感じる過去や未来、自分の行動の結果としての未来、表に現れない経済システム(今食べている海老やバナナはどこからどうやって来たか、その生産過程は?) 目に見えない人の感情)をどこまで感知するかの能力を高めること。星の王子様に出てくるキツネも言っています。「大切なものは目にはみえないんだよ。心で見なくっちゃね。」しかしそこには知性も必要です。当たり前のことですね。

ベンジャミンフランクリンはtime is moneyと言い、目に見えない時間をお金に換算しようとしました。一元化して可視化することで想像力を封印し、合理性を追求したのだとしたら極めてアメリカ的ではあります。

アイルランドではtime is time
時間は時間であり、神様がくれた時間をお金には換算できないとしてアメリカ的思考を拒絶するものが多いと聞きます。目に見えないものを目に見えないものとして感知する能力も想像力の一部です。

we are not aloneと言うならば、想像力を広げ、地球規模のweに共感を持てるようになること。せめて、そうであったほうがいいなあ、と気づくこと。身近な他人の幸せが自分の幸せにつながると気づき、さらには「身近」の範囲を広げていくこと・・・ただの妄想的理想主義者になってきた・・・ただ、「身近」の範囲を広げることは、今、自分が理念としてではなく現実的行動として実践している最中です。


はじめまして、西きょうじです

このブログでは、とりあえず、当たり前のことを書きとどめていこうかと思っています。

よく考え、悩みぬいた結果、当たり前のことが結論であった、などということはよくあるものです。今の時代に、「そんなの常識」と言われていることが、冷静に考えてみるとおかしなことであったり、「みんなやってるし」という言葉で正当化されていることが、まったく正当なことでなかったりします。

当たり前というのももちろん相対的なものなのですが、おかあさんは子供に話しかけたほうがいいとか(話しかけない教育が実践された時期もあるのです)、人を殺してはいけないとか(特定対象を殺すように教育する集団もあります)、当たり前のことですよね。

最近では、そのようなかなり一般的に当たり前だとされていることが、忘れ去られていたり、科学が証明して初めて再認識したりすることが多いようです。おばあちゃんの知恵みたいなことが医学で証明されたり、いわゆる長老の知恵が形を変えてビジネス界で語られたりします。何をいまさら、というようなことがクローズアップされたりもします。

きっとおばあちゃんの知恵には普遍性があるのでしょう。

当たり前のことを当たり前だと受け取れる感受性は大切にしたいものだと思いますし、当たり前のことを当たり前に実践していこうとも思います。地味なテーマですが、さまざまなことについて当たり前とはなんなのか、ぼちぼち考えていきます。よろしくお付き合いください。

 
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軽井沢の自宅前で、私と愛犬(カイ)。甲斐犬でカイ、安易な名前ですね。
私は未知数 X のギリシア語読みでカイという名前をいつか使いたいと思っていたのですが、そういえば、ソフトバンクのCM犬もカイ君ですね。
プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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