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味わう準備

2018年12月15日「さよなら自己責任~生きづらさの処方箋」(新潮新書)が発売されます。
これは小説新潮に連載していたコラム「そもそも」を大幅にリライトしたものですが、テーマ的に本書の
趣旨の流れに合わないコラムをブレイクタイムとして中に入れる予定でしたが、本書をよりストレートで
すっきりしたものにしようということで、コラムを二つ割愛しました。以下はそのうちの一つです。


ブレイクタイム① 


味わう準備はできているのか?


フグを美味しく食べるには
 

ぼくにとっては天然のトラフグは最高にうまいものなのだが、よりによってフグの季節に友人に言われた。「値段が高いわりにうまいとは思えない」その時は、「好みは様々だよね」と返したが、そのあとで色々考えてみた。
 There is no accounting for tastes「人の好みは説明できない」(蓼食う虫も好き好き)ということわざがある。確かに、個人、あるいは文化や環境によって好みは大きく変わってくるのだろう。しかし、そこで思考を停止しないで、順に考えてみようと思う。

 フグのうまさはどこから来るのか。舌に長く残る強力なうまみと噛んだときの弾力のバランス、これがフグのうまさの基本だ。うまみはアミノ酸系の成分(グリシン、リジンなど)、なかなかかみきれないほどの弾力はゼラチン質の多さによる(フグは魚類の中でもゼラチン質が非常に多く、しかも細かいコラーゲンが密度高く詰まっている)。前者はさばいたあと、時間の経過とともに増えるが、後者は締めた直後から減っていく。新鮮なフグにはうまみが足りないが、寝かしすぎると弾力を失ってしまうのだ。両者のバランスが大切なわけだが、ぼくは、さばき終わってから二四時間から三〇時間くらいがベストだと思っていて、よく行く店ではいつもそうしてもらっている。

 刺身でフグのうまみを感じ取るには、よくかむことが重要だ。かんでいるうちに、うまみ成分がしみだしてくるからだ。かむときも、できるだけ奥歯を使い、できれば口の中で右から左へと動かしながら両方の奥歯を使ってかむようにすると、うまみが口いっぱいに広がり、舌に長い余韻を残すことになる。こう書いているだけで、唾液が出てきた。あまりかまないで飲み込んでしまう、すぐにお茶や酒など味の強いものを飲む、というような食べ方ではフグを味わうことはできない。食べ方を知って初めて味わうことができるものなのだ。

 しかし、食べ方以前に課題がある。それは味覚、特に舌がどのような状態であるか、ということだ。ヒトは、舌にある味蕾という器官(一〇日間隔くらいで生まれ変わっていく)で味を感じ取り、ニューロン(神経細胞)を通して脳で味を知覚している。味蕾が強い刺激を受け続けると弱い刺激に脳が反応しにくくなる。日本人の味覚はとても繊細だと言われているが、日常的に、いわゆるジャンクフードを食べている人の味覚では繊細な味を楽しむことは難しいだろう。もちろん、なにをおいしく感じるかは個人差、文化間の差があるだろうし、その時の体調にもよる。疲れているときは甘いものを欲するだろうし、汗をたくさんかいたあとは塩分を欲するだろう。また、ジャンクフードを美味しいと感じる味覚を否定しきるつもりはない。しかし、それは人が本来持っている味覚ではなく、人工的な強い味を習慣的に受け取ることによって麻痺させられた味覚なのだとは思う。本来のその人なりの味覚を取り戻すにはファスティングをしてみるといい。一週間ほど水と添加物を使っていない酵素ジュースだけで過ごすと味蕾は敏感になる。様々なミネラルウオーターの味の違いくらいは、すぐに感じ取れるようになる。つまり、一度リセットすることで、自分の本来の感覚を取り戻すのだ。この感覚をもてば、ファストフードは刺激的ではあるが、味わう対象ではないと実感するようになるだろう。こうしてようやく食べ物をより深く味わう身体的な準備ができるわけだ。もちろん、準備ができてから食べるべきだ、と言っているのではない。食べてみて、興味を感じたら、もっとおいしく食べる方法を考え始める。そこで、よりよく味わうための準備を始めればよい。

五感で味わう
 
これまで、五感のクロスオーバーについて何度か取り上げてきたが、味覚も五感すべてで受け取るものである。ウインナーソーセージのバリっという音が味覚に影響を与えている、といえばすぐに納得できるだろう。視覚や嗅覚の影響は特に大きい。記憶や事前知識、環境によっても影響を受ける。例えば、赤ワインを飲むときには、どのような色であるか、香りはどうかが飲む前に情報として脳に伝えられる。さらに、どのレベルのワインなのかということや、どういう空間でどのようなグラスで提供されているのか、という要素も大きく影響する。テイスティングの訓練を受けたソムリエでもこれらの要素によって判断を間違える、という実験結果は多数報告されている。

ちなみに、苦味や酸味は大人になるにしたがって、経験を積み重ねることによっておいしいと感じ取るようになる味である。苦味は毒物、酸味は腐敗のシグナルであり、人間の体にとって警戒しなければならないものだ。これらは、そもそも、有害な物を判断し、避けるようにするために必要なのだ。子どものころに、酸味の強い酢のものや、苦みの強い野菜などが嫌いだったのは本能だったわけだ。苦みや酸味は経験によって味わえるようになる味覚なので、コーヒーやワインを味わうには、必然的に訓練が必要だということになる。もちろん、味わいたいという衝動を感じる体験がきっかけとなるのだろう。

このように考えてみると、フグを本当に味わうには、まずはフグを味わいたいと思える出会い方をすることが出発点であり、その上で、人工調味料などによって麻痺した味覚を本来のものにもどし、心身が健全な状態で食に臨み、美味しく感じられる環境を選び、フグを美味しく食べる方法を知っていることが必要だ。もちろん経験を重ねることも大切だ。食べる回数が増えるにしたがって、味わい方も熟練していくのだ。北大路魯山人はフグについて次のように語っている。

 ふぐの美味さというものは実に断然たるものだ――と、私はいい切る。これを他に比せんとしても、これに優る何物をも発見し得ないからだ。
 ふぐの美味さというものは、明石だいが美味いの、ビフテキが美味いのという問題とは、てんで問題がちがう。調子の高いなまこやこのわたをもってきても駄目だ。すっぽんはどうだといってみても問題がちがう。フランスの鵞鳥の肝だろうが、蝸牛だろうが、比較にならない。もとよりてんぷら、うなぎ、すしなど問題ではない。
(『魯山人の食卓』グルメ文庫、角川春樹事務所)

あらゆるものは味わえる
 
ここまで、飲食の話をしてきたが、これは飲食に限った話ではない。たとえば、音楽に反応する能力は人間に先天的に備わったものだ。言語獲得のためにはメロディーに対する感受性、リズムに反応する身体性が必要だからだ。しかし、訓練することによって、より深く味わうことができるようになる。バンドをやっている人たちだと、自分の楽器パートだけを聴く、ということをやるだろうが、これをオーケストラでやるととても面白い。すべての楽器パートを別々に聴いたあとで、全体を聴くとその重層性に感動する。全体の構成を意識して楽章ごとに位相を考えて聴く訓練をすると、モーツアルトの交響曲のすごさを思い知ることになる(交響曲じゃなくても、K.516〈弦楽五重奏曲第4番ト短調〉など、初めの旋律だけでも感動するけど……)。
 
絵画でも直感で感じ取ることは大切だが、歴史を知り、鑑賞訓練を積むことでより深く味わえるようになる。能・狂言、文楽といった伝統芸能になると、味わうための訓練は不可欠だといえるだろう。訓練をしていない人が、能は退屈だ、というのは率直な感想であるが、それはその人が能を味わう準備ができていないからだ、とも言える。
 
これは、ぜいたく品、嗜好品やハイカルチャーに限った話でもない。日常的に接するもの、家具や生活雑貨、衣服などに関しても、興味を持って知識を増やせば、その奥行きの深さを感じることになるだろう。自然環境の中にある草や木や川や山も同様だ。どのようなものや、どのようなことでも、興味をもったことについて思考を深めれば、味わい深さを見出すことになるのだと思う。普通の人が見たらつまらないと思われる石ころでも、鉱山学者がみるとそこにいろいろな情報が詰まっていて、興味の対象となるかもしれない。話がそれるが、石ころといえば、竹中直人の映画初監督作品「無能の人」(つげ義春原作)を思い出す。主人公は川原の石を集めて売ろうとするのだが、もちろん売れない。主演でもある竹中は「僕、無能ー!」と最後に叫んでいたが、それぞれの石ころに個性を見出すのは「無能」とは言い切れないのかもしれない。

 ここまでをまとめると、味わいたいものに出会い、好奇心を持ってその対象に関する知識を獲得し、その知識を対象と照らしあわせる訓練をすればするほどに、深く味わえるようになり、楽しみがましていくということだ。訓練といっても、好きになったものをより深く味わうための訓練なので、その訓練自体も楽しみになる。もちろん、社会的には、自分がおかれた社会・経済的環境(貧困・災害・飢饉・戦闘などなど)のために、味わうための訓練どころではない人たちが多くいる、ということこそ重大な問題ではあるのだが……。

本と会う、人と会う準備
 

人の言葉の受け取り方、読書についても同様だ。一般に人は、誰かの言葉が分かりにくい場合、あるいは本の内容がわかりにくい場合は、話し手、書き手のせいにしがちである。もちろん、話す側、書く側が相手にとってわかりやすく表現しようとすることは必要なことだ。しかし、表現の仕方の問題ではなく、そもそもある段階に達していないと理解できないということは多くある。たとえば、どれほどわかりやすい数式であっても、日常的に数式に慣れていない人には理解できない。しかし、数式の場合は、理解できない人は素直に自分のせいだと認めるだろう。これが言葉になると、理解できないのは自分のせいだ、とはなかなか思えなくなる。言葉は日常的に自分が使っているものだから、自分にはどんな言葉でも理解できるはずだと盲信してしまうのだ。しかし、たとえば、大人にならないとわからないことは、どれほど子どもにもわかる言葉を使って説明しようが、子どもには理解できない。歳をとって経験を重ねて初めてわかることもあるからだ。自分の知力のフレーム内にない対象は理解できない。理解するには、フレームを広げるしかない。予備校講師をしていて「もっとわかりやすく説明してください」と言われ、「いや、どう説明しても、君にはわからない。その話題を出したぼくが間違っていた」と答えて、生徒にキレられたことがある。ぼくも、フェルマーの最終定理やポアンカレ予想をどれほど丁寧に説明してもらっても理解できないだろうし、それと同様のことだと思ったが、「すまないが、ぼくには君にわかるように説明する能力はない」と謝って事なきを得た。最近も、編集者に「とにかく、わかりやすく、を第一に考えて書いてください」と言われて、「どう書いても、わからん奴にはわからんのだ」と、グレてみたこともあった。ごめんなさい。しかし、この頃「わからない」ことへの恥ずかしさや自責の念を全く感じず、自分がわからないのは伝える側が悪いのだ、という逆ギレや、「ややこしいことはわからないでいいだろう」という開き直りをよく目にして、諦めに似た感情を抱くことも多い。
 
このように考えると、古典を味わえない、という場合には、それが古臭くて時代遅れだからではなく、読む側に準備ができていないからだということになる。何も必ず古典を読むべきだと言っているわけではない(とはいえ、アメリカの大学生が、課題として与えられる本のトップは、いまだにプラトンの『国家』だという。大学生には古典を読むことが必要だと認識されているのだろう)。ただ、長い歴史を経て多くの人に読み継がれてきたものには、それだけの価値があるのだろうし、その価値を感じ取れないとすれば、自分がその段階に達していないからだ、と判断するほうが妥当だと言っているのだ。あるレベル以上の言葉を受け取り理解するには、意識的に言語力を鍛える必要がある。もちろん、訓練すればするほど楽しめる範囲も広がっていくし、深く味わえることになる。

ぼくは、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー/新潮文庫)を、中学生の時に初めて読んだが、人間関係と物語の進行にばかり集中し、アレクセイへの共感・憧憬の念を抱き、フョードルやドミートリイには嫌悪感しかなかった。何回か読み直してようやく、社会や信仰のあり方、登場人物それぞれのあり方をゆっくり考えながら読み、作品自体を味わえるようになっていった。中学生の頃には、まだ、ドストエフスキーを読む準備ができていなかったのだろう。今では、ドミートリーにも結構共感できる。
 
実は、人と会うにも準備が必要なのだと思う。人の言葉やあり方を受け止め、人のよさがわかるには、場合によっては訓練が必要なのだ。予備校で教えることになった年に、有名な先生方の講義を見学させてもらった。その中に、かなり多くの生徒が集中していない講義があった。寝ている生徒もかなりいる。講義は、英文を解析するというスタンスではなく、うまい日本語訳を提示するというスタンスだった。これでは、英語を読む力自体はつかないだろうし、得点をあげたい生徒が退屈するのも無理はないなあ、と感じた。その後、同じテキストを使って講義するようになったが、ぼくは英文を解析して、どの英文でも同じシステムで読めるようにする、というスタンスで講義し、生徒たちの支持を受けた。しかし、ある時、ふと思った。自分のやり方で生徒の学力はつくし、生徒は満足してくれているが、後々のことを考えると、余韻と疑問を残す講義のほうがよいのかもしれない。美しい訳文を提示して、自分の訳とのギャップを感じさせる、しかし過度に説明はしないで、そのギャップは生徒自身が考えなければならない。そのスタンスを味わえる段階に達している生徒が少なかったのが残念だっただけで、当時のぼく自身もその講義スタイルを味わう準備ができていなかったのだろうと思う。味わう準備ができている生徒にとってはすばらしい講義だったのだ、と今ならばわかる。

 人に会う、というのもそういうことなのだろう。ある人の面白さ、深さを感じ取るには、その対象を味わえる準備ができていることが必要なのだろう。誰かを面白くない、と感じる時には、自分がその段階に達していない、という可能性もあるのだ。「私の言葉が理解できないのは、きみの準備不足なのだ」とか、「私を認められないのは、君のレベルがまだ低いからだ」とか、言ってみたい誘惑にかられるが、そうではないかもしれないし、そもそも相手がその言葉の真意を理解できない可能性も高いので、無用に人の神経を逆なでしないようにしよう、と自重している。何はともあれ、会うべき時に会うべき本や人に会えることはとても幸せなことだ。そして、出会った本や人を、しっかりと味わえるための準備をしておくほうが、偶然の出会いによって人生の奥行きが広がることになるだろう。準備をしていないと、せっかく宝物が目の前に現れても気づかないだろう。実は日常生活は宝物にあふれているのかもしれないのに。

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スタンウエイCD75 by TAKAHIRO HOSHINO

干野宜大(ほしのたかひろ)さんのピアノを二日続けて聴いた。一日目は瑞江のフレンドホールで、二日目は石橋メモリアルホールでいくつかは同じ曲を連日で聴くという体験をした。石橋メモリアルホールでの演奏はヴィンテージニューヨークスタンウエイCD75という1,912年製のピアノ。ホロヴィッツが最も愛したピアノとされていて、今もその当時のコンディションを保っているのは世界でこの1台だけだということだ。現代のピアノとは全く異なる音色、パワーで、同じ曲を連日で聴いたおかげでピアノの違いがよくわかった。バイオリンも同様だが、これほど技術が進歩している時代において、より素晴らしいピアノが生まれてこないというのも不思議な感じがするが、素材と技術の問題なのだろう。ちなみに、皮革製品や木材も昔に比べて素材の質が極度に落ちているのは、とても残念なことだ。
 
石橋メモリアルホールでの演奏の感想を少し。前半はスカラッティから始まり、モーツアルトのピアノソナタへ。これは様々な演奏を聴いた結果、グレングールドとファジル・サイの演奏が気に入っていて、しょっちゅう聴いているのだが、干野さんのような解釈は初めてだった。念のためホロヴィッツの演奏も聴きなおしてみたがやはり干野さんのような解釈はしていなかった。この音をピアニシモにするの?ここでスピードを変えるの?これに一瞬空白、間をいれるの?など驚きがいっぱいだった。ある部分をピアニシモで弾くだけで曲全体がいたずらっこのようなかわいらしいなものになり、間をうまくとると音楽に新たな色彩が加わり映像的なものになるのだと感じた。
 
そしていよいよベートーベンピアノソナタ「アパショナータ(熱情)」これはルービンシュタインの演奏を聴きなれている。昔のピアノフォルテを使った演奏も打楽器感があって気に入っている。で、干野さんの演奏、これははじめの音から衝撃的だった。CD75とはこんなにパワフルな音が出るのか!乾いたピアノならではの深い音色。こんなスタンウエイ聴いたことがない。音の塊を脳髄にたたきつけられているよう激しい演奏に、途中から心臓がバクバクして呼吸があやしくなった。穏やかなパートに入ると心臓のバクバクはおさまったのだが、なんだか涙が流れていた。ここのパートに感動しているわけじゃないのだがなあ、と冷静に思いながらもただ涙が流れていた。そして最終パートへと向かうと再び音の嵐。最後の鍵盤をたたいた勢いで上半身がのけぞりそのまま立ち上がるエンディング。演奏が終わったとたん立ち上がって歓喜の叫びをあげそうになったが、タイミングを失って座ったまま拍手をするにとどまった。

休憩をはさんで後半。前半とうって変わってとてもリラックスできる楽しい演奏だった。最後のハンガリー狂詩曲13番は連日で聴いたが、思い切った編曲で、いろいろな楽器や町のざわめき、通りでのおしゃべりなどのイメージが次々に浮かぶとても視覚イメージを喚起する曲になっていた。聴いていてニコニコ笑顔になり、ときに声を出して笑ってしまいそうになるような演奏だった。アンコールは、事前にこっそり聞いていた通り、モーツアルトトルコ行進曲ジャズバージョン。これもグールドとファジル・サイの演奏をしょっちゅう聴いている曲だが、ジャズ編曲は新しい曲としてスイングしていた。別の曲のモチーフも加えとても気持ちが躍動する演奏、とても楽しい余韻を残して終了した。
 CDでは味わえない生演奏の良さを存分に味わった二日間だった。やはり事件は現場で起きているのだなあ。

「モヤモヤする」について考えてみた

「モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ」(宮崎智之)を著者に送っていただき、様々なエピソードを楽しく読ませていただいた。しかし、「モヤモヤする」という言葉がどうもピンとこなかったので「モヤモヤ」について少しだけ考えてみた。

まずは「モヤモヤ」とはどういう感じなのだろう。僕自身は自分の感情を「モヤモヤ」と表現したことがなかったので調べてみた。
「モヤモヤ」という言葉を使ったことがなかっただけで、「モヤモヤ」で表現される感情を頻繁に経験しているのかもしれないと思ったのだ。
 
「もやもや」とはもやがかかったような状態を指し、「もやもや病(Moyamoya disease)」は、脳底部の異常血管網がたばこの煙のようにもやもやしてみえる病気だ。「モヤモヤする」とは、対象に、もやがかかっていてはっきり見えないもどかしさを感じている、という状態のことのようだ。あるいは何らかのわだかまりがあって心がすっきりしない、という状態も表す。時に、色情がむらむらと起こるさまを表すこともあるが、おそらく「モヤモヤする人」という場合、そういうことを表しているのではないだろう。
 
調べてはみたが、どうも自分は「モヤモヤ」を感じることが少ないようだ。なぜ自分は「モヤモヤ」しないのだろう、と考えてみた。様々なことをはっきり割り切っているから、というわけではない。「賛成反対どっち?」などと言われると、どっちというわけでもない、というようなことはたくさんある。どうも納得がいかないが、周囲に合わせておく方が無難だから不本意ながらもそうしておこう、というようなケースも多々ある。では「モヤモヤ」に近い状態ではないか、と思われるだろうが、本人は「モヤモヤしている」とは感じないのだ。
 
こうして書いていると、だんだんわかってきた。なぜ「モヤモヤしている」と感じないかというと、僕の場合「モヤモヤしている」のがデフォルトだからだ。ずっと霧の中にいる人は、それが普通の状態であって、たまに霧が晴れると感動するが、それがあるべき状態だとは思っていない。また、その状態は自然に表れるものであって、自分の意志によって作る状態だとは思えない。たまに訪れるラッキーな現象であって、だからこそ「霧が晴れた」と言語化するわけで、デフォルト状態をわざわざ言語化して表現する必要はない、と感じているのだと思う。

僕にとって「生活する」「生きる」というのはモヤモヤした状態の中で、これといったはっきりした答えに行き当たらないまま手探りし続けることなのだと思う。霧がかかっているからこそ、周囲の状況に敏感になる。視覚だけに頼れないからこそ感覚全部を研ぎ澄ます必要が生じる。五感全てを使いながらゆっくりとおぼつかない足取りで進んでいく。視界が悪いからと言って進むのをやめてしまえば生きている実感を失ってしまうだろう。そんなわけで僕は「モヤモヤ」を感じないまま、「モヤモヤ」の中で生きていくのだろうなあ。はっきりとした視界を力づくで得ようとするのはどうも危うい気がするし。
 

流れていく日常の中で、立ち止まる勇気を持とう

レールの上を歩いているという幻想


日々の生活や、目の前の仕事に精一杯で、毎日気がつくと眠る時間だ。自分らしく生活しようとしていながらも慌ただしさの中で何となく流されていっている気がする。政治や経済のニュースを見て漠然とした不安は増大するが、今ひとつ身近なことには思えない。AI技術の進歩によって、時代の変化が加速していると言われても、自分がどうしたらいいのか見えてこない。今ある仕事の半分がAI技術に取って代わられるというが、周囲も自分と同じように生活しているようだから、とりあえず今は見ないことにしておいてもいいんじゃないか、と思う。AIによって新たな職も生まれるだろうし、いざとなったら考えることにしよう。自分だけが頑張っても、どうなるものでもないし。頑張ろうとすると、今まで歩いてきたレールを踏み外してしまいかねない。
 そんな感じで生活している人はけっこういるのではないか、と思う。実は、ぼくもその一人だ。しかし、既存のレールが続いていくというのは幻想だ。

 やりたいことが見えているならば今すぐ踏み出す(「準備が整ってから」では期を失う)


そうではなくて、自分にはどうしてもやりたいことが今ある、という人は、即行動することが大切だ。スキルなどは走りながら体得すればいい。準備を整えてから、とかいうのはいいわけに過ぎない。そして新しいことを始めるための準備が整ったりはしないものだ。思い切って走り出せば環境も変わるしチャンスも生まれやすくなる。だから、新たな領域に思い切って飛び込んでいこう。ネットが普及した今では、支援者を見つけるすべもたくさんある。ただ、いわゆる社会的に成功した人たちの後追いはしない方がいい。成功ストーリー的な自己啓発本など即捨ててしまうことだ。時代は急速に変化しているのだから、やり方をまねることに意味はない。新たなことのためのレールなど敷かれているはずもない。

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎「道程」))という精神で道を切り開いていってほしいと思う。ちなみに、この詩については、できれば初出の全文(「高村光太郎全集第19巻」筑摩書房)を読むことをおすすめしたい。最終的には最後の1小節だけが作品として残されたのだが、それに至る長い記述はとても感動的だ。この最後の小節の直前にはこう書かれている。

 「歩け、歩け
  どんなものが出てきても 乗り越して歩け
  この光り輝く風景の中に踏み込んでゆけ」
やりたいことがあるならば、行動を起こすことが大切だ。Z世代の起業についての記事などを読むと、なおさらそう思うし、それを応援するのが僕たちの世代の役割だとも思う。

やりたいことがみえないならば

しかし、今、どうしてもやりたいことがあるというわけではないが、今のままでいいと思っているわけでもない人は、一度立ち止まってみよう。実は「道程」の中にも以下のような部分がある。

「僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た」

ここでは、歩こうとしても歩けなくなってしまった状態が書かれているが、何となく歩いている状態を意識的に中断して、一つところに立ち尽くしてみることにも意味がある。ペダルをこぎ続け続けていなければ倒れてしまう自転車に乗っているような生活の中で、あえて立ち止まるには勇気が必要だ。しかし、立ち止まって振り返ってみること、今の自分の立ち位置を確認してみること、そしてこれからの時代に向けて自分の姿勢を立て直すことが、必要な時期もある。オフラインの時間を作ってゆっくり考える時間をつくってみることで、日常の情報フローをデトックスするのは有益だ。日常から離れて自分の過去や自分の置かれた環境について考えてみると日常見失っていた様々なことに気づくだろう。

僕たちがいま・ここにいるのはたまたまである


「そもそも」という連載コラムで「ぼくたちがいま・ここにいるのはたまたまである」という書いたことがある。(この連載は相当加筆修正して12月に新書として出版される予定だ)。ぼくたちは、自分の意志が関与しない状況で、産み落とされ(be born「生まれる」は受動態だ)、たまたま与えられた環境の中で育てられてきた。自分の力で生まれ、自分の力で育ってきた人間などいない。考えてみると、生まれてから大人になるまでに、親を含め周囲の人や環境からとても多くの「借り」を受けてきたのだと気づく。当たり前のことだが、普段はなかなか意識しないことだ。

 特に社会的に「成功した」人は、自分の努力と才能によって成功したのだと思い込みがちだが、実は運も必ず関与しているし、インターネットや交通システムといった社会の既存のインフラの恩恵を受けているはずだ。いわゆるセルフメイドパーソンはアメリカンドリームの理想とされてきたが、「セルフメイド」など幻想に過ぎない。
しかし、だからといって「借り」を返さなければいけないという義務感に駆られてしまうと、あまりにも不自由な人生になってしまうだろう。親に借りた「借り」は違う形で次世代に返せるようにすればいいし、社会に借りた「借り」は社会に返せばいい。誰もが完全じゃないわけだし、自分のできないことは気兼ねなく人に助けを求め、人のできないことで自分のできることは手伝ってあげよう、という意識をもって行動するだけでコミュニティはより健全なものになるだろう。「もちつもたれつ」世の中は回っているものだという当たり前のことを常に念頭においておきたいものだ。

大人の学び


はじめに書いたように、今、時代は大きく変わろうしている。たとえば、AI技術がどこまで進歩するのかは今判断することはできない。しかし、シンギュラリティという言葉を乱発して無駄に不安をあおる論調から身を離しておくことは必要だろう。不安は売れる、これが出版界の常識だからだ。しかし、おそらく確かに近い将来に今ある仕事の半分くらいはAIに取って代わられるだろう。メガバンクが採用を減らし、早期退職を募っている現状を見ればすぐにわかる話だ。これについては、AIが得意とする領域でAIと勝負しても勝ち目はないのだから、AIが苦手とする領域でAIとの共存を図っていく必要があるという認識が必要だ。AIに仕事を奪われても新たな仕事ができるだろうと楽観主義者は言う。新しい仕事は確かにできるだろうが、それはAIが苦手な領域に位置づけられる仕事になるはずだ。つまり、推論力、共感力、コミュニケーション能力、創造力、想像力といった現在の学校ではまともに教えられていない分野の能力を高めることが必要になる。だからこそ、大人になってからも「学ぶ」ことが必要なのだ。もちろん、知識習得、技術習得を「学び」と言っているのではない。「学び」とは、学ぶ楽しさを再発見し、自分から一度離れ、自分を破壊し、更新することで他人との関係を見直し、変化に対応しうるしなやかさを取り戻すことだ。

犬も歩けば棒にあたる


立ち止まって「学び」を経験し、一呼吸置いたら、自分の道を模索し、思い切って歩き出してほしい。「自分の道」が見つからなくても焦らなくていい。何かを学ぶと、身の回りの人間関係を少しだけ変えてみようとか、新たなことに挑戦してみようとか思えるようになっているだろう。そうした小さなことから始めてみれば、道は見えてくるものだ。 

身の回りのこと、人への対し方を新たにするという行動を起こしつつ(この時点ですでに歩き始めていることになる)、ゆっくりと自分の道が見えてくるのを待てばいい。早く道を見つけたいとか目標を定めたいなどと思う必要はない。ともあれ、歩き始めてみることだ。目的が見えなくてもかまわない。歩いていると目的が生まれてくることもある。決まった目的に向かって歩くよりも楽しいかもしれない。人生いきあたりばったり、もいいだろう、と僕は考えている。「犬も歩けば棒に当たる」というが、棒に当たるのはラッキーかもしれないしアンラッキーかもしれない。しかし、ともあれ一歩ふみだすことでで新たな変化のきっかけに出会うことにはなるだろう。

人生いきあたりばったり、この文章もいきあたりばったり、みたいな感じだなあ。

もう一度「身体で書くクリエイティブライティングワークショップ」

この日の総括がまだ終わりません。最後に書いた小説の書き出しは1万字を超えていて、よくあんな短時間にこんなに書けたものだと思いました。今丁寧にリライト中で、最終的には100枚を超える作品になりそうです。
それとは別にミュージックからのインプロビゼーションライティングはこんな感じでおこなわれました。
音楽を聴く、聞きながら思いつくイメージを書き始める。多分3分くらいで書ききるという課題。
テーマ曲は以下の一部、入り方が大分異なっていますが(ジムノぺデイ(エリックサティ)のメロディの前までが流れされた、と思う)
https://www.youtube.com/watch?v=abM7hAZ5BTc&list=RDp7nbwWNGcXQ&index=2
インプロビゼーションライティング
  僕が誕生したのは海の底だった。僕は音もなく光もほとんど届かない深海の一部だった。ある時かすかに太陽の光が届き始める。海水に熱が生じ、静止していた水が揺れ始める。ゆるやかな鼓動の始源。光が波の中で揺らめく。そのとき、生命が胎動し始めたのだ。僕の中に僕という意識が生じる。海底という空間を共有しているものたちの存在を感じる。波の韻律は、はじめは規則的に、やがて規則を逸し、ときに不協和音を交えながら変化していく。小さな泡がかすかにきらめきながら上昇していく。波に揺られながら僕も海面へと上昇していく。水温が上がっていくのを感じる。

なんでこういうイメージが浮かんだのは今となってはわかりませんが、音楽を聴きながらそれを文章に変換していくインプロビゼーションライティングは、自分が偶有性の媒介になったような感じで面白かったです。
プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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