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デカルトからベイトソンへ オフ会36回のレジュメとして

第36回オンラインサロンオフ会 「デカルトからベイトソンへ」(1981年翻訳1989年復刊2019年)読書会のためのレジュメとして

前近代から近代合理主義へそしてその限界から新たな方向へ

近代にいたるまで長い期間、人々は世界の中に自分を没入させる(参加する意識)によって人間が世界と関わってきた。
つまり、自然の要素としての人間、集団の一員としての自己という考え方が基本であった。
ところが、デカルトあたりから始まる近代合理主義は、私と私でないものを区別し、人間と自然を区別し、精神と意味を区別し…というように自分を世界から隔てることを通して世界と関わってきた(参加しない意識)。つまり、あらゆるものを自分(主観)から切り離し対象(客観)として扱うようになったわけだ。そのおかげで科学は大いに進歩し、我々はその恩恵を受けて生活している。

しかし、現在この近代合理主義は行き詰まりを迎えている。40年前に書かれた本書で予言されている「コンピュータ化されたマス・メディアと情報交換から成る、システムにがんじがらめに縛られた世界」となってしまっている。「そのような世界は多様性と自由を妨げるものであり、権力を持つ一握りのエリートの支配のもとに全地球を均質化するものだ」という指摘も当てはまっているだろう。もちろん、環境問題、核の問題なども近代科学の産物であるし、コロナの蔓延もテクノロジーがグローバル化を促進した結果だ。また、近代合理主義と親和性の高い資本主義の行きついたところが、社会の維持可能性を危うくしている経済格差でもある。
だからといって安易に前近代に戻ればいいというものではない。世界との新しい関わり方、新しい認識論が必要ではないか、というのが本書の趣旨である。

本書では、この可能性を考えるヒントとしてポランニー「暗黙知」が挙げられている。
暗黙知とは簡単に言えば、言葉で合理的に説明しきれない知ということで、身体的知性(自転車に乗るなんていうのも含まれるだろう)、第6感的知性(オカルト的と受けとられかねないが)を含むものである。「西洋の伝統的な知のモデルは、経験から自己を引き離すことによって、知識が得られると唱える。だが、この例(初めはシミにしか見えないX線写真の像が練習を積み重ねると、次第に焦点を結び、胚芽見え症状が見えてくるという暗黙知の例)では、経験の中に自分を埋没させるまで、X線写真が意味を帯びてこない。自分というものが忘れられ、独立した「知る主体」がX線のシミの中に溶け込むことによって、シミが意味あるものに見えてくるのである。ギリシャ人の言う「一体化」、すなわち肉感的で詩的で官能的同一化が、この学習の核心なのだ」と述べられている。

新しい認識論とは、近代科学を含む統合的な認識論のことだ。医学でいうと解剖学的西洋医学(還元論的=全体は部分の総和である)と全体の流れを重視する(全体は部分に還元しきれない)東洋医学の統合ということになるだろう。近代科学においては、客観的知識という手段が目的化されているが、新しい認識論においては、客観的知識は手段として活用すべきものなのだ。これは、このサロンで「アートの鑑賞の仕方」をテーマにした時に取り上げた「主観を軸としつつ知識、知性を道具として活用することでアートを鑑賞する力が増大する」と述べたことと呼応する。

主観と客観の融合については、自著「さよなら自己責任」でも取り上げた「中動態の世界」(国分功一朗)も参考になるだろう。また、日本の伝統文化の中にそういう要素も見られる。たとえば、能楽では「離見の見」ということが言われている。これは自分の演技を鑑賞者の視点から視て(離見)、さらにその全体を主観的に観察する(見)というものだが、客観とそれを統合した主観という近代合理主義(客観こそ真実だ)を乗り越えていくためのサンプルと考えられるだろう。

 しかし、現実を見ると、40年前に書かれたこの本の目指した方向性に向かってきたのかというと、そうはなっていないように思われる。コロナ禍に見舞われている現在、中世の魔女狩り(感染者を探し出してさらす。感染者はその地域に住まなくなってしまうことさえある)、人柱(不倫を行った芸能人などを集団で(匿名性のもとに)ネット上で攻撃する。不倫ではないが炎上によって芸能人が自殺にまで追い込まれたテラハ事件など)に類似する現象が起こっている。

つまり近代的合理性を超えて次へ向かっているのではなく、むしろ前近代的な群集心理が、それに火をつけることが可能な近代科学・テクノロジーの産物であるインターネットの力を得て復活したように思われる。
これは、このブログで「声の文化と文字の文化」(W.J.オング)について取り上げたことにも呼応する。文字を持たない文化と文字を持つ文化の違いについて、文字を持つようになった文化は大きなアドバンテージ(因果関係やカテゴリー認識を可能にする論理性)を得たが、それとともに文字のない文化(=声の文化)が持っていた豊かさ(叙事詩やコーランに見られるような)を失ってしまった。この本にはそこまでしか書かれていないが、私はさらにネットによるコミュニケーションの発達がむしろ声の文化的要素を備えていることを指摘した。反復性(リツイートによる拡散、それがフィルターバブルを生む)、即時性(ツイッターに「~ナウ」という言葉があふれていたこと)、論理を書いた感情的表現(脊髄反射的言説)、さらには絵文字やスタンプ(感覚的であって論理的ではない)などである。ここにも、近代合理主義の乗り越えではなく、非合理性⇒合理性⇒非合理性への回帰という大きな流れが見られるのではないかと思う。

 果たしてこの現状を乗り越えていけるのか。「デカルトからベイトソンへ」に戻ろう。本書によれば、「現代、私たちはシステムとして居座ったダブルバインドが集団的狂気を生み出している世界を生きている。狂気は我々の世界に遍在しているのである。」これは暗黙知を存在しないものとして切り捨て近代的合理主義の範疇しか認めない世界が陥っているダブルバインドのことをさしている。本書ではヘーゲル的(弁証法的)乗り越えが示唆されている。ダブルバインド(一方をたてればもう一方がたたないが、両方をかなえたいようなジレンマ、ヤマアラシのジレンマがよく例に挙げられるがこれは、互いに近づいて温めあいたいが、近づくと互いの針が刺さっていたい、かといって離れると寒い、という話だ)を乗り越えるために両者を統合させた全体像を創造するのだというわけだ。本書ではベイトソンのイルカの例があげられているが、より高次の階型へ向かうことで新たな知が生まれるということだ。

人間を自然から切り離し、人間対自然という対立項を生み出したのが近代合理主義だが、コロナ禍に見舞われている現在、with coronaという表現で、コロナとの共生というあり方が求められている。コロナをすべて排除したいというのが近代合理主義的な言い分であるが、それは無理なのではないか、ということがこの危機的状況において認識され始めているともいえるだろう。精神と肉体の分離、自然と人間の分離がデカルト以来の近代合理主義の根本にあるのだが、身体の動きが脳を形成する(自著「さよなら自己責任」第8章参照)ということ、人間は自然の中にいて初めて存在するものであるから、自然を自己から切り離してとらえようとすると必然的に自己も物象化の対象となり、自己が自己から切り離されていくことになる、さらに世界は自分とは無関係に成り立つことになり、自分が世界に帰属しているという感覚が失われるということ、を考慮すると、近代合理主義だけで推し進めることの限界、むしろそのような風潮が健全な社会への障壁となっていることが見えてくるだろう。
 
この限界は実は科学の側からも提示されている。数学におけるゲーデルの不完全性定理(一つの系の中にはその系の中の要素だけでは証明できないことがある)であるとか、量子物理学(ハイゼンベルグ 電子顕微鏡を使って粒子を詳しく観察しようとすると電子を大量にぶつけることになるので観察対象自体に変化を及ぼしてしまう、いいかえれば観察する側のやり方によって観察対象が変化してしまう、つまり主観と客観は切り離されるものではなく、主観が客観に介入してしまう)、あるいは本書ではのべられていないが、脳の研究におけるソーシャルブレインズの領域(研究対象としての脳は、その外部の影響を受けるので単一の研究対象として取り扱うのは難しい)、非線形科学(たとえば同期現象)や複雑系科学、カオス理論(たとえばバタフライ効果 北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる)といった分野はこれまでの近代科学絶対主義の限界を示唆しているというわけだ。

本書では近代合理主義批判が徹底的に記述されている。しつこく繰り返すがもちろんそれを排除してオールターナティブを探すべきだと言っているのではない。本書では「人工を糾弾し自然を称揚するのはファシズム・イデオロギーの中心の要項である」とも述べられている。「自然に帰れ」的ラッダイト運動を称揚しているわけではない、ということだ。近代合理主義的思考をすべてだと考えて、それ以外を排除しようとする傾向を批判しているのであり、近代合理主義を道具としてより統合的な知の方向を目指しているのである。方法論としては、たとえば、「情感のアルゴリズム」があげられる。本書から逸脱するが、これは現在の研究でいうと、人類学、心理学に情報工学、人工知能を組み込み、個人と他者を分離するのではなく、関係性のネットワークの中で人間の情感の動きをとらえようとするというような研究を示唆しているものだ。現段階での近代科学の認識論が人間を完全には説明しきれないものだという認識がその根底にある。

最後に本書で近代科学絶対主義批判として書かれている一節を取り上げることにする。

「社会の変化に目をつぶり、自己のなかに閉じこもることで、彼らは逆に変化(社会の崩壊)を促進させているのである。」
この批判は近代合理主義批判の枠を超えて、コロナ禍における生活者全般への批判たりうるのでないか、ということをここで提示しておきたい。
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楽しい時に「楽しい」と言わせない社会っておかしいよね。


赤ん坊が笑うと周りの人も少し幸せになる。これは人間の遺伝的な、つまり本能的性質。弱い赤ん坊は周りのアシストなしには生きられないし、赤ん坊が育っていかないと社会も持続的にならない。

誰かが楽しいと自分も楽しくなる、楽しさは共有すれば増大する。誰かが苦しいと自分も苦しくなる、苦しさは共有されることで軽減することもある。一緒に笑ってくれる人、一緒に泣いてくれる人がいると、人は孤立感を避けることができる。社会生活を維持するために重要な共感能力、これも本能的なものであって、共感能力をベースに人は社会生活を維持してきた。

ところが、今、例えば僕が「楽しい」とか「楽しかった」とかSNS上で発言すると、その発言に傷つく人もいるし、その発言に怒る人もいるし、その怒りを正義の名のもとにぶちまけ仲間を募って攻撃を始めようとする人さえいる。これはどうしたものか、と思い、いくつかの例を考えてみようと思う。

たとえば、「結婚しました」「子供ができました」「子供が成長しました」というFacebook上での友人の発言に対して。結婚したいのにできない人、子供が欲しいのに子供ができない人、たちが発言者のことを無神経だと言う。しかし、発言者がそれに気を使って発言しなくなる、というのはどうなのだろう。また、SNS上で自他を比較する人は鬱状態になることが多いということもわかっているし、Facebookを使えば使うほど人生に満足できなくなりやすい、ということもわかっているわけだから、発信者のことを無神経だと言って攻撃する暇があるならば、さっさとFacebookをやめればいいだろう。発言者としては、発信頻度が多すぎると顰蹙を買う、ということはあるだろうけど、うれしいことを発言して「いいね」をもらうともっと幸せな気分になれるのであれば、発信を遠慮することはなかろう、と思う。それを見てうれしさを共有する人だっているのだし。
(参照記事)https://gigazine.net/news/20191004-quitting-facebook-less-depressed/

次に僕がよく炎上させちゃうパターン。社会のムードにそぐわないタイミングで喜びなどを発言する場合。社会への批判、考察などに対する発言に対して、反発、反論、罵詈雑言が来るのはまあそれはそれとして、たとえば台風で被災状況が明らかになる中で、自分が楽しかったことについて書いちゃうときの反応。まあ、自粛を要求するわけだ。人の苦しみや悲しみが想像できないのか」とか、「自分だけよければいいのか」とか攻撃してくる例のやつ。僕は空気読まないからなあ、しょっちゅうこの手の攻撃を食らっているよ。台風のあと、出張から帰って、家族は無事でしたというコメントと家族の写真をアップした芸能人に対して、「行方不明の人もいるのに幸せアピールしんどい」と言った批判の声があがる。そのインスタグラムでは「台風による被害がこれ以上拡大しないよう、一日も早く復興することを願います」と書いているのに。たぶん、批判者たちは台風被害の当事者じゃないんじゃないかな。暇なのか。

まず、「自分は楽しい、と思うのはいいことじゃないか」というのは当然のことだ。(もちろん「自分さえ楽しければそれでいい」とは言っていない)また、楽しい時に「自分は楽しい」と発言することには何の問題もない。ただし、悲しみにくれる人が隣にいる場合は発言を控えるほうがよいだろう。では、はるか遠くに悲しみにくれる人がいる場合はどうだろう。たぶん、「楽しい」と笑顔で発話することに問題はない。要は距離の問題だ。もちろん、ネット上では物理的に遠くにいる人にも言葉は届くだろうが、それにしても距離感の問題といえるだろう。

たとえば、「今日のご飯おいしかった」とFacebookに書き込んだとたんに、「今、飢餓状態にいる人は世界(日本でも)に多くいるのに不謹慎だ」という攻撃は飛んでこないだろう。「金持ち自慢しやがって」という妬みから攻撃をしてくる人はいるが(そういう人はすでに残念な人であって、先に書いたようにきっとSNSをやめる方が幸福感を得られるはずだ。でも、攻撃的な言葉でストレスを発散することで、さらにストレスをため、さらに負の言葉の発散によって解消しようとしていくうちにストレスがさらに高まり、ますます不幸になっていくということになるのだろう)、彼らは、視野を広げれば「吉野家の牛丼うまかったぞ」でも、理屈上、同様の攻撃対象になるはずだとは思い至らない。「俺たち庶民」の外部に「食事も満足に取れない人」が日本にもたくさんいるということが見えていないわけだ。きっと「俺たち」が世界の標準なのだな。想像力の問題かな。

台風の話に戻してみよう。「不謹慎だ」とか言う人は大体において被災当事者ではない。被災者の代弁者のつもりではいるのかもしれないし、被害に心を痛めているのかもしれないが。じゃあ、世界中で常に起こっている悲惨な災害についてはどうなのだろう。そこに当事者性を感じ取り、共感しないものは不謹慎だというならば、いつであっても「楽しい」という発言ができなくなることになる。
まあ、簡単に言うとどこまで当事者性を感じているか、どこからは見ないことにしているか、ということに尽きるわけだ。

自分にとって都合のいい当事者性と正義感で誰かを攻撃するのはいかんと思うな。
 



LITALICOフォーラムの感想 part1

LITALICO フォーラム「青年期から成人期の発達障害支援の現状と課題」に参加して
(2018年11月4日東京大学本郷キャンパス)
part1

午前中の熊谷晋一朗さん(東京大学先端科学研究センター准教授)による基調講演
「当事者視点から見る青年期以降の発達障害支援~そのケモノ道から学ぶもの」をベースに当日の感想などを書いてみます。

 なお、熊谷先生の話に私の社会認識、感想を加えながら書いているので、これは講演の要約ではなく、文責は私にあります。

まずは医学モデルと社会モデルのちがいについての説明がありました。
 医学モデルというのは、障害は当事者の内部の問題だとして、治療、リハビリを通じて、障碍者を健常者に近づけようというアプローチです。1970年代はこのアプローチしかなく、障害者は健常者に近づかなければ社会で生きていけないと考えられていました。脳性麻痺である熊谷先生自身も子供の時期に回復の見込みもないのに厳しいリハビリ訓練を続けさせられたと語っています。しかし、1980年代以降、社会モデル、つまり障害は障害者と社会の接合がうまくいかないことから生じるのだから、社会の側が変化することによって障害者が等身大のまま生きていけるようにできるはずだという考え方がでてきます。

 たとえば、科学技術の進歩によって障害者と社会との接合面をなめらかなものにすることは可能です。眼鏡やコンタクトレンズが簡単に手に入る現在では、近視を障害だと考えている人はいないでしょう。障害をテクノロジーの力によって障害でなくする、ということはある程度まで可能でしょう。

現代では医学自体も医学モデルアプローチをとっておらず、個人の可変性の限界と社会の可変性の現状を考慮しつつベストミックスを探るというアプローチになっています。
つまり両者の適合性を個人の中に障害があるのだからそれを治療して健常者に近づける、ということだけが解決法だとは考えられていないわけです。

しかし、日本の社会を見渡すといまだに医学モデル的考え方に基づく差別が横行しているように思われます。健常者ができることをできないくせに、というような発言も多々みられますし、社会の側、自分の側ではなく、障害者の側にのみ問題があるという考え方も敷衍しています。できれば接触したくない、関わりたくないという排除的姿勢をパブリックスペース(電車など)で見かけることも多いです。目に見える障害に対する差別に対しては健常者のマインドセットの改善が必要でしょう。おそらくそれには啓蒙活動よりもちょっとしたナッジが有効かと私は思います。具体的に有効なナッジを今思いついているわけではありませんが。
 
ところが自閉スペクトラム症のように目に見えにくい障害に対してマインドセットを変えることはさらに困難です。そのような症状がおこってしまうのだということを理解していないと、社会的コミュニケーションのとりづらさは相手の性格の問題で簡単に治せるはずだと思ってしまいがちだからです。

社会的コミュニケーションがうまくいかないことについては、障害を持つ少数派の側だけに責任を帰すのではなく、少数者と多数者のあいだに障害が起こっているのであり、それは行動の予測誤差への感度の問題としてとらえることによって、コミュニケーション障害の解消が可能になります。ここでも科学技術的アプローチは有効です。たとえば認知ミラーリングシステムによって、自閉症の人には環境がどう見えているか、を体験することができます。当事者が感じ取っている雑踏の音、光の刺激などを、VRを通じて体験すると環境に対する反応の違いを実感でき、当事者の感じ方を共有できます。他者(この場合当事者)が抱えている問題を知ることが、社会の中の一員として、みながそれぞれに自分らしく生きることの第一歩になるのです。 part2に続く
 

オンラインサロン「ポレポレ現代社会トーク」オフ会第12回

オフ会12回「メディアをどう捉えるか」のためのメモ書き

メディア論とはマーシャル・マクルーハンによると「内容それ自体より伝えるメディアの形が重要であるとする」考え方。
そもそもメディアとは媒介なわけで、情報を媒介するもの全般と考えられる。
情報メディアはマスメディア、ミドルメディア(数千から数万までが対象 いわば閉じた系)、パーソナルメディアという3つに分類される。私たちがSNSで発信する場合、もちろん私たち自身もメディアなのだという意識は必要だろう。そして、メディア批判する場合には、批判する自分の言語がメディアによって形成されている要素があるので、批判対象から距離を置ける言語を使うようにすることが大切だ。
マスメディアには、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、SNSなどが含まれる。
新聞、雑誌がSNSに押されていることはいうまでもない、が、それは文字を読んで考えるというロジカルな思考行為が損なわれ、視覚情報、断片情報に反射的に反応するという行為が優勢になりつつある、という事態と平行している。だからといって文字、論理リテラシーの復活をうたうのは現実的に厳しいだろう、と思われる。フェイクニュースなども文字情報だけによるよりも映像を加えることでより脊髄反射的に伝達されるものとなるだろう。

 媒介は紙からPCへさらにはモバイルへと移行しており、モバイルへの加速は急激でインドでは月に700万人が新たな携帯契約をしている。そうなると情報の発信受信ともにモバイルというフォーマットに合うが優位になるというのは言うまでもない。携帯を利用するときの場所の制約性のなさはもちろんだが、身体的な要素も考えるべきだろう。携帯では新聞を一瞥するように広い視野で眺めることは難しい。ビジネスモデルとして断片化され視覚的インパクトを生む情報提示の仕方が優位になっていくわけだ。PCが果たしていた役割の多くを携帯が果たすようになるという変化はメディアの変化にとどまらず、情報発信受信のありかたに大きく影響していくだろう。ビジネスとして考えた場合、モバイルに適した情報発信をできるモデルを考えたものが先行していくだろう。私が、今ここに書いているような長い文章は情報としてはもはや化石のようなものだ。
 現在のネットニュースのありかたを見る限り、新たな方向に向かうビジネスモデルが確率しつつあるようには見えない、過渡期なのだろう。しかし、ニュースを伝えるという点におけるメディア全般にあるべき一貫性という点で見ると、ジャーナリズムの劣化は目を覆うばかりだ。ここに、マスメディアの問題点を列挙してみるので、気になる点、引っかかる点があれば、メモしてあとで話題に取り上げてください。
1 権力との癒着(特に日本では大手メディアの代表が政治家と食事するなど)
2 記者クラブというお友達組織(大本営発表にしかなりえない情報入手)
3 言語の定型化、常套句化。テレビのニュース番組など「舌鼓を打っていました」「子どもたちが躍動していました。」などなど、ニュース用の定型的言葉遣い。
言語はとても重要なのだが、その言説の仕方の定型化は情報そのものの中身のなさを露呈している、これは発信者の匿名性(つまり誰が発信しても同じこと)にも関わる。発信者の責任が回避されるからだ。
また、このような常套句ばかりが埋め込まれたニュースは見る価値がない。何も批評性もないからだ。天気予報ならばもちろんそれでいいのだが。
 4 ①,②の点で見るとテレビより、ラジオのほうが権力との距離は、権力による制約をうけにくい。ネットもそうであるはずだが、意外に権力的センサーシップが働いており、
政治的利用は容易なメディアであると言える。メディアが政治との癒着あるいは政治による圧力によって独立的ジャーナリズムの機能を果たしえないのと同様、新聞がテレビを批判できない(テレビ局と同系列であるから)という現状も共倒れになる様相を呈している理由だ。私はラジオというメディアの可能性(ミドルメディア的)に注目している。

5 情報の信頼性
速報 性、 情報 の 信頼 性、 ソース への アクセシビリティ、 などなどの要素があるが、 内田樹は情報の価値を「その 情報 に アクセス する こと によって、 世界 の 成り立ち について の 理解 が 深まる か どう か」においている。理想主義的ではあるが、ジャーナリストが考慮すべき要件だろう。第一次情報へのアクセスとそのコストを考えると二次情報的ネットメディア(パクリともいう)が増えている現状は仕方ないのかもしれないが、クラウドファンディングなどで支えていくことができればよいだろうなあ。情報は無料で提供されるものだという意識は払拭すべきだろう。

6 物語的構造
  いわゆる弱者憑依。
   マイノリティー側にたった報道をしておけば共感が得られ、批判されにくい。しかしそのときマイノリティーは個別性を越えて記号化されている。これはネットでも同様だ。
しかし、はじめはそのスタンスをとるにせよ、事後の調査およびメディアの中立性は必要だろう。

7発信者の匿名性
再び内田樹の言葉を借りると、「少し でも 価値判断 を 含む もの は、 政治 記事 に し ても、 経済 記事 に し ても、 その コンテンツ の 重み や 深み は、 固有 名 を 持っ た 個人 が 担保 する 他 ない と 僕 は 思う の です。   けれども、 僕たち が 今 読ま さ れ て いる、 聴か さ れ て いる 文章 の ほとんど は、 血 の 通っ た 個人 では なく、 定型 が 語っ て いる。 定型 が 書い て いる。」内田 樹. 街場のメディア論 (光文社新書)
もちろん、匿名性が大切な場合もある。「保育園落ちた、日本シネ」のような発言だ。
しかし、ジャーナリストの発言は今以上に署名記事に向かうべきではないか。

8メディアは社会的共通資本か 
ビジネスとして割り切ってよいものなのか?
社会共通資本として、医療・教育や電気道路などのインフラと同様に利潤追求の対象として市場的条件に左右されてはならない という原則を守るべきなのか?
ビジネスとして割り切るならば、消費税免除を訴えるのは筋違いであるし、それを訴えるならばビジネス以上に重視すべきことがあるのだという自覚を持つべきだろう。
9メディアは事件、戦争が好き 
そりゃそうだ、「今日は昨日と同じように平和な日でした」じゃニュースにならん。もしかしたら、メディアが取り上げるために事件が起きているのか?つまり何でもないことを事件化して扱っているのか?しかし、パーソナルメディアならば事件なき伝達も可能になるので、ミドルメディア、パーソナルメディアでそういう個人発、世の中の普通さ、良さを伝えることが増えていく方が社会の安定につながるだろう。ただし、でっち上げられたちょっといい話、では意味がない。

では、各人、メディアについて思うことを述べていきましょう。⇒ 各人の発表とそれに対するコメントなど、今回もかなり盛り上がる議論が展開しました。

皆の発言中、私が特に関心を持ったテーマは、「雑誌」というメディア、0年代と現代のネット空間の違い、文体論、メディアから距離をとって批判的に見る方法、インスタなど視覚的情報による文字のない文化への退行、といったあたりでした。
 次回は6月24日14時半、テーマは「自分が何にはまってきたのかの歴史を記述する⇒自分の好き嫌いの起源をたどる」
好き嫌いについては人は直感で決めてそれ以上思考しないことが多いのだけど、自分史的に掘り下げて、それを他の人と共有することで新たな発見があるのではないか、という回です。次回は参加メンバー一人につき二人まで知人を連れてきてくれてよいという形にしてみます。参加申し込みのときに同伴される方の名前、人数を伝えてください。

ゲンロンカフェ5周年イベント

ゲンロンカフェ5周年イベントに行ってきました。ゲンロンカフェというのは、哲学者東浩紀主催の主にトークイベントを行うスペースです。ゲンロンでのトークは、予定調和的に行われるものは稀で、通常はテーマについてトークしながら思わぬ方向に話が進み、観客、ネット視聴者は登壇者の思わぬ発言に刺激されそこに参加しているという臨場感、一回性を味わえます。今回は5周年と言うこともあって、これからのゲンロン背負っていく4人を四天王と名指して、東浩紀含めて5人でトークするという豪華なイベントでした。
「批評とは何か」「これからゲンロンはどう進んでいくか」というのが基本的なテーマとして掲げられ、トークは19時から休憩をはさみ、非常に盛り上がって深夜1時まで続きました。もちろん終電は終わっています。私はそのあと4時半までゲンロンカフェで観客や登壇者と話しながらワインを飲みました。
 様々な話題が飛び出し、それぞれに考えるところはあったのですが、ここでは自分にとって特に興味深かった部分、思考のきっかけになった部分にしぼって書きます。

 まず批評とは何か。東浩紀はツイッターで「カタカナを並べて、直観的には10秒でわかるようなことを小難しい文章で書き、自分の賢さをアピールするのが批評ではない。批評というのは、それを読む前と後では作品鑑賞やコミュニケーションの仕方が変わり、世界が変わるものじゃなければいけないのだ。」とつぶやいている。つまり、机上の空論におわるものであってはいけないし、仲間内で言語を共有すればよいというものでもない、あくまでも言葉が現実と接する実践でなければならない、ということだ。そのことによって現実の中に新たな価値を生み出すのだ。であれば、当然、社会的現実、社会通念、あるいは政治とぶつかりあうことになる。つまりは批評とは読者に社会に刃を突きつけ世界を切り開こうとする行為だと言っても過言では無いだろう。刃を突きつける以上、相手も命がけで攻撃してくる覚悟が必要だ。
 東浩紀は、おそらくはその覚悟ができていなかったのであろう若い登壇者(批評再生塾というゲンロン主催の評論家育成コースの第一期総代)に、覚悟のほどをせまっていた。(この登壇者は、最近のイベントで真っ向批判してきた相手に対して戦うことを放棄して逃げてしまった、ということだった。私はその場にいなかったので判断できないが…)
 トークでは東浩紀はボクシングに例えてこう言う。「批評は格闘技であり、相手に痛いと思わせることが必要だ。自分が先に痛いと言ってしまったら負けだ」さらに、実践とスパーリング(白ワインを飲みながらついついスパークリングと言ってしまっていたのは面白かった)はちがう。ヘッドギアをつけて想定されたルールの中でスパーリングを行うのと、本気で殴り合うのとは違う、さらにはボクシングの例を逸脱して、ルール無きケンカみたいなものだ、とも。それは一人で引き受けて戦うケンカであり、誰かに代わってもらうことも、誰かに頼ることもできない。戦い方は様々にあるはずだ、と。
 その登壇者は音楽(ヒップホップ系)批評を行っているのだが、東浩紀はこう言う。ジャンルの応援をするような文章を書くな、自分は何が好きで何が嫌いなのかから書け。その原点こそが社会との接点になる、と。つまり、NOなものにはしっかりNOと言え、というわけだ。ことを荒立てたくない傾向がある若者には厳しいだろうが、確かに自分の感受性を自分の肉声で語ることからしか人を動かす言語は立ち上がってこないだろう。私自身、その登壇者の音声の発し方そのものについて疑問を感じた。ほぼ一定のスピードで話し、音程が上がって息継ぎをする。音程は上がるが強度があがるわけでもない。呼吸が浅く、単調で弱々しい印象を与える話し方だった。音楽をやっているならば呼吸を深くして腹から声を出し、自分の話し方の速度、音程の変化(時に意識的に下げる)、アタックの強弱(時に十分な間をつくるなども)を意識したほうがいいだろうなあ、と思った。これはトーク後、本人に個人の感想として伝えた(ちなみにヒップホップについて質問した観客の発話にヒップホップ的音楽性を感じた。決してヒップホップ調で質問したわけではないのだが、スタッカートのような音節の区切り方、リズムと抑揚が音楽的で話す内容を引き立てていた。音楽的な話し方を身につけるとヒップホップを語る説得力がもっと得られるのだろう)。また、譲歩的発言をする度に東浩紀に叱られていた。大人になってからあんなに叱ってくれる人はいないだろうなあ、とうらやましく感じたくらいだ。東浩紀曰く、「失敗を指摘されたとき言い訳はするな。炎上すると言い訳など機能しない」さすが経験者である。さらには「話し始めて3秒で空気を変えろ」といいつつ自ら実践してみせた。これができないと僕の職業では生き残れなかったというのは言うまでもない(あくまでも昭和の頃の予備校においての話だが)。大勢の人を引きつけるように話すにははじめの数秒が勝負なのだ。
 批評は「ユリイカ」や「群像」に書くことではない、というのも納得できる。つまり世間での評価を求め仲間同士支え合って安定を得ようとするなど、批評たり得ないということだと思う。そもそも西洋哲学はソクラテスの死とキリストの死を原点としており、後者は若きメシアが権力者に殺されるという図式、前者は老人が大衆(アンチ)に殺されるという図式であり、それが原点である以上現実と接するときの悲劇は運命づけられている。東浩紀は特に前者に注目している。確かに後者は自由と権力という歴史的に繰り返されてきたわかりやすいヒロイックな構図だが、前者は一見わかりにくい。社会に影響を与える以上、変化を望まぬ一般社会(それが通常は多数派となる)から排除される危険性を伴うはずだ、ということだ。つまり、世界を切り開こうとするものは世界によって切り刻まれることを覚悟しなければならないのだ。ここに「批評とは何か」についての東浩紀の明確な解答がある。自分がものを書くときに常に座右においておきたい意識だと思った。
 話は変わるが、トークを聞きながら僕は「孤立と連帯」ということを考えていた。「連帯を求めて孤立を恐れず」というのは東大紛争時に言われたとされている有名なフレーズだ。東浩紀が批評は一人で戦うことだ、と言って塾生たちが群れようとしたがる傾向を批判していた時にこの言葉を思い出したのだ。昔、平林たい子は「しょせん、雑魚は群れたがる」と言い放った。かっこいい台詞だ。確かに批評は、自分の戦いとして自立して行わなければならないものだ。戦っている最中に相手から目を離して誰かに助けを求めるなんてできない。捕食される動物が群れることで自分を守ろうとするのは、自然界においては正当な自己保存行為であるにせよ、自ら戦いをしかけるべき批評においては認めがたいのかもしれない。しかし、人は他者と出会い異化作用を起こすことでより強くなることもあるし、集団で狩りをするのは単独行動よりも有効だ。それぞれが自立できる力を持ちつつ共闘することは有効だろう。たとえば、ドゥルーズ・ガタリは単独ではなしえなかったであろう共著を残している。ガタリがドゥルーズに異化作用をもたらしたわけだ。今の塾生が単独で天才東浩紀に追いつくことは極めて難しいだろうが、それぞれのジャンルに卓越した3人か4人がチームを作ることで全体として総和を越えて創発が起こり新たな境地を開拓することは可能だろう。反則してでも戦えといわれた彼は、いつかタイマンというルールさえ逸脱して仲間とともにリングにあがって合体した姿でたった一人の東浩紀をボコればいいのだ。
ちょっと言い過ぎた…
少し残念に思ったのは、東浩紀は何度も、内輪の世界に閉じこもるな、外の世界とぶつかれ、と言い続けていたのだが、最後になって、登壇者の一人が客席及び動画視聴者に、次のイベントは絶対見る価値があるから 「おまえら見に来い」というような言い方をした。東浩紀は視聴者観客に「おまえら」という種の言葉を使ったりはしない。視聴者に「おまえら」という種の言葉を使う時点で「おまえら」と言われて違和感のない人、つまり内輪だけを対象にしてしまっている意識が露呈されてしまう。 これは残念な発言だと思った。

 ともあれ、非常に刺激的な時間だった。ゲンロンに行くのはが、僕にとってはある種の観光、未知との遭遇のチャンスみたいなものだ。しかし、まあ、55才になると徹夜が体調的にとても尾を引くものだ、ということもまたまた実感したのだった。
プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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