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お箸を使うということ

文化についての覚書の続きバージョンです。

いつだか卒業生と食事をしていると、そのうちの一人がサトイモをお箸でつきさして口にもっていきました。「そうやってお箸を使っていい、って習ったの」と聞くと、「いえ、でもうまくお箸使えないんで」と答えられました。その場では、「ふーん」と言ってそのまま食事を続けましたが、他の人たちのお箸をちらっと見ると、先端2センチ以上にわたって食べ物のあとが付いている人も結構いました。お箸を汚していいのはせいぜい2センチまでだと思うのですが、お箸の使い方を教わってこなかったのでしょう。その場では何のコメントもせず、おそらく彼らは私の感情の動きには気づかず楽しく食事は進みましたが、私の頭にはしっかりと残っている映像です。私の見たところでは、お箸がきちんと使えるか否かについては、世代間の差というよりは個人差が大きいように思います。

おそらくこのブログを読んでいるであろう私の元生徒は(来年はしっかりオクスフォード行けよ!)お箸の使い方ができていないガールフレンドと別れてしまいました。彼はカラテをやっていて、武道をやっている人間はお箸が使えない人間を許せないのかと変な一般化をして納得した覚えがあります。(ばらしてすまん・・・またご馳走するから許せ)

因習や伝統にしがみついているような脆弱な大人ではなく、新たな時代を切り開いていく若者がこのような価値観をもっているということには少し心強いものを感じました。

お箸をきちんと使うことは一つの文化だと言えるでしょう。サトイモを口にもっていくというだけならば、お箸で刺して口に運ぶことは、サトイモが崩れないかぎり、合理的な行為だと思います。しかし文化には合理性で割り切れない側面があります。そして合理性では割り切れない部分に文化の奥行きがあります。

日本では、子どもの頃スプーンで離乳食を食べていたのを、お箸でご飯を食べるようになり、お箸の使い方を徐々に習得していきます。躾バシなるものもあり、きちんとお箸を使うことを日本人は未だに重要視しているようです。

ちなみに着物や洋服の縫い目を正しくさせ、仕立てが狂わないように縫いつけることを「仕付け」といいます。乱れずに形を保つことがしつけであり、それに「身を美しくする」という躾という漢字を当てたのです。

日本人の躾に関してはルース・ベネディクトが「菊と刀」で、日本では「生活に必要な身体上の技能を育む様々な習慣」があり、とくに食事の作法や座り方については「教える側が自分の手で子どもの身体を支えて、その動作をとらせることに、非常な力点がおかれている」と述べています。(「菊と刀」については、日本人を未開人のように見て西洋との対立をむりやり描き出しているように思われる部分もあり、実態とかけはなれているという批判も多いのですが一つのお話として読んでみてもよいかとは思います)。躾というと厳しいものと思われがちですが、手とり足とりしながら子どもに社会秩序を身につけさせていこうとする大人たちの慈しみがあったのだということですね。今、こどもに躾を教えられないのは、大人に余裕がないからなのかもしれません。あるいは共に過ごす時間が短いので言葉だけで教えようとしてしまうからなのかもしれません。言葉では学べないことも多いのですが。

昔、蕎麦屋でお箸を使おうとしながらなかなか使えないイギリス人にお箸の使い方をその場で教えたことがありますが、彼らにとってはお箸を使うのはなかなか難しいようです。なんとか使えるようになるころには、蕎麦がのびてしまい仲のいい蕎麦屋の親父さんがうち直してくれました。そのイギリス人はお箸の使い方を身につけて帰ることを目標にしたようでした。お箸を使うことも異国の文化なのだと認知しているからでしょう。よいお箸が手に入る店も教えました。お箸は素材や作り方で随分異なるものになりますし、丁寧に作られた赤杉のお箸などは手に持つだけでその柔らかさに気持ち良くなります。私自身は普段は黒檀のお箸を使っていますが・・・ついでに、うどん用の箸ととそば用の箸では削り方の細かさが異なります。

お箸を使うということを前提に考えるならば、その使い方は親から学ぶものなので、親がきちんとお箸を使えないならば子どもきちんと使えないだろうということになります。きちんとお箸を使うと、掴む、開くの動作が安定し、その際の重力の掛かり方やバランスには合理性があり、なによりも重要なことにきちんとお箸を使う所作には美しさがあります。お箸を使うという文化が消え去らない限り「きちんとお箸を使える」ことは重要な価値観なのだと思います。きちんとお箸が使えないまま大人になってしまった人は、小笠原流礼法を学べまではいいませんが(ちなみに「武道と礼法」は良い本だと思います。)せめてネットなどで正しいお箸の使い方などを調べて恥ずかしくない程度には身につけておきたいものです。

さらに、お箸を正しく使うという動作にとどまらず、お箸を使うという文化は根底のところでナイフとフォークを使う文化とは異質な価値観を備えていると思います。(もちろんナイフとフォークも美しく使うべきものであることはいうまでもありませんが。)西洋のスプーンやフォークやナイフは、「掬う」「刺す」「「切る」という目的に対してそれぞれ一つの道具が割り当てられているのに対して、箸は「つまむ」「割く」「切る」「かき回す」といった用途を一つでこなします。

この文化の違いをロラン・バルト(フランスの評論家で私が影響を受けた一人です)が情感的に語ったことがあります。ナイフとフォークが狩猟の動作の延長にすぎないのに対して、箸の使い方は、あたかも雛を育てる親鳥のように、食べ物をほぐし、くちばしでそれを運ぶような繊細な心遣いがあると彼は表現しています。さらに箸で「つまむ」という動作は、口に運ぶのに必要な力しか与えず、それはフォークで獲物をとらえるような動作とは異なっている。食べ物を小さく分ける場合にも「ほぐす」「くずす」「割く」という行為は、ナイフで切断するのとは違い、「食べ物を暴行しない」と述べています。また、日本人の箸の扱いに関しては「人が赤ん坊のからだを動かす時のような、配慮の行きわたった抑制がある」とさえ述べています。「(命を)いただきます」から始まる日本人の食事は、命を蹂躙することなく命を育むような営みだといえるでしょう。さらにバルトは箸の「二つのものを組み合わせて運搬する」という機能について「支えの技術」と呼び、箸を使う動作の繊細をを美しいと感動しています。西洋と日本を対立的にとらえる場合にありがちな過剰な単純化、日本を称賛する過剰な思い入れは感じられますが、少なくともバルトを感動させるだけのものを日本人は持っていたのだと思います。

これは日本の伝統文化の中で、今ならばまだ守っていくことが可能な、あるいは復活させることも可能な領域なのではないかと思います。箸をきちんと使おう、当たり前のことですね。

日本文化について、お箸の使い方から座り方や立ち方の姿勢といった身体性(エドワードモース「身体技法論」などにふれつつ日本人の体の変化)と呼吸(呼吸が浅い人はキレやすいとか)にまで話を展開したかったのですが今回はお箸の話のみに留めることにします。



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東大の入試問題出題テーマの私的解釈

今、東大受験に特化したCDロム教材を作成しています。語学春秋社から7月中に出版予定です。リスニングも含め500分以上の講義をCDロム1枚に収めたものです。(CDではありません。CDだと5枚くらい必要になってしまいます)
今回はそのあとがきの草稿をそのまま掲載します。教材の性質上、東大受験生へのメッセージとなっていますが、私としては東大受験生にかぎらず、現代の社会人へのメッセージとして読んでみてほしいと思います。

今回このCDロムを作るにあたって東大の問題を30年分ほど見直してみました。そうしてみると東大は入試問題を通じて受験生になんらかのメッセージを発しているように見えてきます。私が勝手に解釈しているのかもしれませんが、その時代性に応じたテーマを選びながら、いわゆる近代合理主義への批判、伝統的価値観の見直しという主題が読み取れるように思われます。あとから出題年度を見てみると、その時々の時代のテーマが意識されているようにも思われます。その上で、近代合理主義に犯された目に見える偏差値ばかり追い求めるような、世間でよく思い描かれるような東大生になってはいけない、とメッセージしているようにさえ思われます。

いくつかの出題を例にあげながらそれを見ていくことにしましょう。

医療の分野では、2007年に、技術の進歩を認めながらも、現代医療が見失っている人間的コミュニケーションの重要性が述べられた文章が出題されています。時間をかけて患者とコミュニケートするという心のふれあいが大切だというのは、まさに合理性と能率を追求する現代という時代が見失いつつある部分です。いわゆる近代合理主義が切り捨ててきた部分が本当は切り捨ててはいけない重要な部分なのだという主張に見えます。統合医療的視点といえるでしょう。ちなみに日本統合医療学会の現在の理事長は東大名誉教授の渥美和彦氏で、統合医療学会はしばしば東大で行われています。更には「医療と信仰」というテーマでいわゆる「前向き」な気持ちが治癒には必要だという「人はなぜ治るのか」(アンドルーワイル)に書かれているような内容の文章も出題されています。

また、母親の思い出を述べる文章(2009年)では、母親のことばとして、「便利と称しながら結局は仕事を増やし、ささやかではあるけど本当の喜びをとりあげることになった」と述べています。まさしく合理化が切り捨てたものへの郷愁です。電動フードプロセッサーを使わない理由は野菜を切ることが好きだから、クレジットカードを使わない理由は代金を払うときには掌でその額を実感したいからだと述べています。前者は現代の身体性の喪失を示唆するような言葉であり、後者については、よくよく考えてみるとお金の実感を失って数字が暴走する金融経済とお金を手に感じる実体経済が対比されているようにも見えてきます。

あるいは同じく2009年の要約問題では、地面に1ペニー貨を隠して通行人にヒントを与えて見つけさせるという遊びについて書いたあとで、「疲れすぎたり、忙しすぎたりするからといって、立ち止まって1ペニー貨を拾うことができないというのは本当に忌まわしい貧困である」と述べています。この文章の要約は「世界には無償で手に入れられるささやかな喜びに満ちており、その発見に意義を見いだせるような質素で純真な心をはぐくめば、一生喜びを発見し続けられるだろう」というものでした。忙しく、疲れながら贅沢を求めていく中で喜びを見いだせなくなっていくという現代性への批判といえるでしょう。

同じ方向性の文章は2001年にも出題されていて、要約問題なのですが、「些細な日用品であっても正しくみれば単なる物を超えた意義深い価値を見出すことができる」という趣旨の文章でした。問題文中にトーマス・カーライル「衣装哲学」から「物はすべて、窓の役割を果たすのであり、その向こうには、哲学する目からは無限そのものがのぞけるのである」という一節を引用しています。
さらには「上流階級と下流階級の境界は恣意的である」や「就職の面接における学歴偏重批判」も出題されており、経済的収入のみで勝ち組・負け組といった分類をする風潮や学歴で人を判断する風潮への批判とも考えられます。
1986年には「想像力は世界を動かすと言えるはずなのだが、目に見えないところで作用しているので、それが果たす功績はごくわずかしか評価されない」という趣旨の英文が出題されています。これは想像力があらゆる文明の根底であることがわかっていない教師への批判として書かれています。目に見えるものばかり求める現代社会への批判という点では、「大切なものは目には見えないのさ、心で見なくっちゃね」という「星の王子様」に出てくるキツネの科白を思い出しますね。想像力という点では、さらに2011年には「他人の痛みは理解できるか」というテーマの自由英作を出題しています。これは入試の時間内で答えるには無理がある問題ですが、試験では深く考えずに形式論理を意識して表面的な文章を構築しておくしか仕方ないでしょうが・・・2011年3月に東日本大震災が起こって、これはますます重要なテーマとなりました。

2007年の出題では大都市にはない小さな町の素晴らしさを述べた文を要約させています。都会では没個性となりやすいが、互いに顔の見える小さな町では個々の人間な地域の不可欠な要素となり心豊かな人間関係が築かれているということが書かれています。都市化が切り捨ててきた地域社会の人間関係の素晴らしさが書かれているわけです。地域社会に住んでいる私からすると顔の見える社会は必ずしもいいことばかりだというわけではないのですが・・・

やや類似した方向性としては、「図書館における怠惰のすすめ」(目的外のものを読みふけるというような怠惰は重要である)とか、「余暇に魚釣りをすること」(魚をとることに夢中になる人と、魚をとっても逃がす人がいるが、後者こそ余暇の本来の過ごし方である)とかいうように、目的と結果しか見えなくなり過程を手段としてしまいがちな現代への批判も出題されています。

さらに学習態度などについては、1995年に訳の問題として前後の文もなくわずか1文だけを出題し、和訳させた出題がありました。その出題形式に私はかなり驚きました。「創造的思考とは、物事をいつも通りの仕方ですることにはとくに何の意味もないという認識を意味するにすぎないと言えるだろう。」という文意でした。創造的ではない受験勉強を続けてこざるを得なかった受験生を挑発しているのかとさえ思えます。
同様のテーマとしては1990年に「プロの風景画家は、美しい風景をただ写すだけの素人画家とは違って、平凡な光景を画題として選び、そこから自分の技量で芸術を生み出すのである」というような創造力を具体化した内容の問題も出題されています。

1992年には、蛍光ぺんを使う学習を批判した文章の要約が出題されています。蛍光ペンで本文にマークするというやり方は受動的な読書習慣を助長し、能動的、批判的、分析的に読書すべき青少年には有害である、という趣旨です。与えられたものを受け取るだけでなく能動的に読書することを促しています。自ら発言しないで教室に座っているだけの教室を改善すべく東大は1993年から英語の教材としてUniverse of Englishを教科書として導入しました。

2011年には、スティーブン・ピンカーが「科学教育のありかた」について書いた文章が出題され、研究対象を包括的な枠組みの中に位置づけることが重要だということが出題されています。近代合理主義的還元主義から脱却し、物事を全体の中でとらえることの必要性を訴えている点では医療についての出題と類似した方向性と言えるでしょう。教養教育を重視したい東大の意思がくみ取れるような出題です。

また、東大はUFOも好きなようで、少年がUFOの本を読んでいるときに実際にUFOが窓の外に飛んでいるという絵について英作文をさせたり、2010年にはスタートレックについて書かれた文章を要約問題として出題しています。ただし、実際の問題では、スタートレックという固有名詞はすべて原文から削除し、内容の一部を省略してしまっているために、幾分不自然な印象を与える文章にしてしまっています。そうためか各予備校の出した解答の中にはかなりピントはずれなものも多かったようです。それでも、プロとしては恥ずかしい話ですが・・・全体の内容としては「SFは空想的なものとして低く評価されているが、真剣に科学の研究対象とする価値がある」というものでした。2009年に始まった政府による「事業仕訳」では「無駄」として真っ先に切り捨てられてしまう分野でしょう。SFをテーマとしながらも、合理性で切り捨ててはいけない部分に切り込んできているようにもみえます。

言語テーマでは、2003年には世界の言語数の減少について、1995年には西欧言語中心に発達してきた言語学はそれ以外の言語をも包括した文法理論を構築すべきだ、という西欧中心主義批判が出題されています。2005年にはエスペラント語についての長文が出題され、2010年には「全世界の人がみな同じ一つの言語を使用しているとしたらわれわれの社会や生活はどうなっていたと思うかを自由英作として出題しています。英語のみが世界共通語となっていきつつある現状を問うような出題です。

環境については、1998年に環境保護の方法として環境税を課して市場原理によって環境を守る方法を提示した文章を出題、さらには2004年にはマダガスカルの環境保全について、環境保全をしながらも地域の人々の貧困を減らしていこうとする計画が述べられています。環境保護がテーマであるというよりは、ただ人間的営みを排除することによって環境を守ろうとするのではなく、環境を守ることが経済的利益となる方向を模索する環境経済学的なスタンスを提示しています。大きな視野からとらえた環境保護の方向性が示されています。

そして東大独特の特徴としてはストーリーの出題の多さです。訳出問題でも多く出題され、描出話法に関係する箇所の訳出が圧倒的に多くなっています。描出話法とは登場人物の感情や言葉を引用符を使わず、地の文で表現することによって読者をストーリーの中に引きずり込もうとする手法です。この部分の出題が多いのは、物語への同化、共感能力を問うものだと考えられます。また、ストーリーが長文として出題される割合も非常に高く、その際には登場人物の感情を問う問題がかなり出題されています。これらは、人の感情を読み取り、共感することは大切だということを伝えているもののように思えます。勉強だけはできるが、他人への共感能力を欠くいわゆる世間で思われている「東大君」じゃあダメなんだよというメッセージに読み取れます。

もちろんすべての文章が近代合理主義的なものの批判というわけではなく、動物と人間のちがい(1986年、2000年)や記憶について(1993年、2004年)民主主義について(2006年)といったような出題もあります。人間と動物のちがいでは「人間独自の特徴は知識そのものを対象化できることである」という内容の要約、記憶については「記憶力は個々の事柄をばらばらに覚えるのではなく、対象の意味を理解し既存の知識の中に位置づけることによってずば抜けたものになる」という内容の要約が出ていて、いずれも単に知識を増やすだけではダメなのだ、と読み取れます。

また、出題の意図が全く読み取れないような文章もあります。もちろん英語力を問う問題としては十分に成立していますが・・・

しかし今見てきたように東大の問題をたどってみると、受験生の英語力を現実的に判断しつつ、英語で情報を受け取り発信するという問題形式を維持しながらも、やはり何らかのメッセージを発しているように思えてくるのです。そして、私自身も、東大受験生にはそのメッセージを受け止めて東大生になってほしいなあ、と思っています。表面的な知識や技術に満足することなく、その根源から考え直してみること。目に見える偏差値という価値観ではなく他人を、そして自分をとらえようとすること。本来大学生として当たり前のことなのですがね。

東大に行く人にかぎらず奥行きのある大学生になってほしいと願っています。
プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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