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道なき道を行け

先日北海道に行った時のことのことです。73歳の友人の別荘に泊めていただき、次の日は山歩きを一緒にしました。昔は穂高や槍岳に登ったこともありましたが、もう長らく登山もしていなかったので、ちょっとした山歩きであってもかなり大変でした。最近はせいぜい浅間山の登山道路を歩いてカモシカを見るくらいで、手も使って上る(climb)などはずっと経験していませんでしたから。

アオバトの鳴き声が聞こえる中、のんびりと出発しました。彼は手に鎌を持っています。少し歩いて行くと目の前から道がなくなりました。見えるのは背丈ほどの笹藪ばかりです。地面を見るとところどころに鹿の足跡があります。こんな斜面を鹿は歩いているのだなあ、と今さらながら感心しました。彼は鎌で笹を刈って空間をつくりながら進んでいきます。おそるべき73歳。私はそのあとをついていくのですが、雨上がりの土はすべりやすく、彼についていくのも一苦労です。

突然、かなり急な斜面になりました。彼は鎌で笹を切り、頼りになりそうな茎をつかみながら上がっていきます。私もそのあとに続きますが、足がすべって距離が開いていきます。追いつこうとしてちょっと無理をして少し先の茎をつかむとそれがスポッと抜けてしまいました。ズズ―と滑り落ちていきます。左手で何とかつかんだ木がタラの木で、棘が指に食い込みますが、手を離すわけにもいかず代わりにつかめるものを探します。やっと別の茎をみつけ右手でつかみ左手を離します。自分の滑って来たあとを見ると7メートルくらい滑っていたようです。その跡は地面がつるつるになっていてもう歩けないのでその横に進路をとってゆっくり登って行きました。滑り落ちても死ぬわけではないようなところなのに、冷静さを失いタラをつかんでしまう、というのは、情けない。今、身体的危険を実感することが減って、生きることへの勘というようなものが鈍っているのかなあ。

ようやく少し平らなところにたどりつくと彼が平気な顔で待っていました。私が滑ったことにも気付かぬ様子で、「ここからは楽だよ」と言って、また鎌で笹を切りながら進んでいきます。「このごろこの辺はクマが出るから気をつけないと」と、今頃言われても…しかも、この辺って、ツキノワグマではなく、ヒグマじゃないですか… もう気をつけても仕方ありません。

下りは、笹をつかみながら後ろ向きに降りていきます。先が見えないので足の裏の感覚が頼りです。足の裏の感覚を利用するなどということを随分忘れていた気がします。遊びでやるゴルフでは足の裏のどこに体重がかかっているかはよくチェックしますが、地面を足裏で確かめて進むのは久しぶりです。身体感覚を大切にすることには気をつけているつもりでしたが。このごろ、足の指を利用して木に登ることもしていなかったし…

そうのこうので、山歩きが終わり、彼の畑でさっき採れたニンジンを水で洗ってぼりぼりかじり、それから近くの温泉に行って体を休めました。とれたてのニンジンはとても香りも甘さもあってうまいものです。昔、かばんにニンジンを入れていて、休み時間にバリバリかじっていると周囲の人に変な目でみられたことを思い出しました。

忘れていた感覚を次々に思いだし、とても得るものの多い山歩きでした。73歳に感謝。25年後に彼のような体力を維持していたいものです。前年に訪ねたときは椎間板ヘルニアを患った直後でしたが、せっせと畑仕事をしていました。すごい回復力です。元官僚の方ですが、裏表のない正直な働き者で、こういう人が官僚の中にもっとたくさんいればいいのだがなあ、と思います。

笹で道を切り開き、歩きながら感じたのは、このごろ自分があらかじめ作られた道を歩きすぎていたということです。どちらかといえば、私は、決められた道を回避するように生きてきたつもりだったのですが、このところ自分で道を開く意識に欠けていたようです。もちろん、自分で道を開くといっても所詮は選択肢の幅を広げるというだけのことで、自分が完全に前人未踏の道を行くなどということではありません。今までもせいぜい、東大よりは京大のほうが自由度が高そうだ、とか、経済学部よりも文学部のほうが就職に不利な分だけ、自分で選択する余地が生まれそうだ(もちろん勉強したい対象が変わったということもありましたが)とか、就職するより劇団に入ったほうがレールを外れられるだろう(もちろん演劇に魅せられてはいましたが)とか、その程度のものでしかなかったですし、それも右肩上がりという時代の背景があればこそできたことなのでしょう。このごろは随分惰性で目の前の道を歩いていたようです。止まらず歩きつづけること、次へ歩を進めることは、常に意識してきましたが…

そうするうちに身体的危機感を本能的に感じ取り、反応する力、環境を体で感知する力も弱まっていたようです。もちろんそれは身体に限ったことではないのでしょう。

人に踏み慣らされていない道を行く。「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」(高村光太郎)とはさすがに言えませんが、誰かが以前に歩いた道であれ、たまにはせめて笹を刈りとることで見出した道を歩いてみたいものです。

先日HCJIという団体によるハーバード大生と日本の高校生が1週間にわたって合宿するというセミナーに顔を出してきました。大学生主催で運営も彼ら自身で行い、海外の大学に行くという選択肢を日本の高校生に提示しようという試みで、1週間にわたってハーバードの学生によるセミナーを少人数に分かれて受講し、また何人かの外部の人の講演を聞くというセミナーでした。夜には外部から様々な人が来て(私も2日顔を出しました)、自由に話ができるという高校生にとっては得難い機会を提供するスケジュールです。そこで高校生や主催者側のスタッフである大学生たちと2日間で6時間ほど話す機会がありました。

それぞれ自分の進路についてまじめに悩み考えているようで、こちらとしてもとても話し甲斐がありました。ある高校1年生は、文系にするか理系にするかが人生の分かれ目であるかのように悩み、また別の高校生は海外の大学に行くかどうかを、大学生は就職をどうするか、あるいは社会に出て自分のやりたいことが実際にやれるのかどうかを、あるいは大学院に進むか否かを真剣に悩んでいました。そのように悩むのはとても大切なことです。私が長らく忘れていた感覚です。

彼らは人の話を熱心に聞き、なんとか吸収しようとします。留学体験者である講演者の成功の話を聞くと素直に自分も行ってみようと思う学生が多いようです。スタッフの学生も帰国組や留学体験者が多くて留学体験についていろいろと知ることもできます。そういう環境では、大人側としては、ある成功の見本を見せるだけではなく、違う側面も見せてやるほうがいいのではないか。つまり、日本の大學の良い点も示したほうが真に選択肢と向き合えるのではないかという感想を持ちました。もちろん、若いうちに日本の外の世界を経験するのは良いことだとは思いますが…

私は受験生に対してはしばしばあえて矛盾したことを話しています。相矛盾する二つの概念を同時に受け止めながらその両者を活用できる知性を持ってほしいと思っているのですが、なかなかうまく伝えられないのは私の言語力が至らないせいだと反省しています。

彼らと話をしながら考えたことです。

初期段階における教育とは第一に子どもの社会化を目標とするものです。「子どもの個性を育む」とか「のびのびと」とかいう題目で子どもを甘やかす風潮は目に余るものがありますが、それでは子どもが共同体の中に位置する自分を受け入れることができなくなってしまいます。いわゆる自己中心的な若者を生産することになってしまうでしょう。社会化するということは、他者を含む集団の中にいる自分の位置づけを知り、その規範に準じることができるようになるということです。一言でいえば、「しつけ」ということです。「仕付け糸」の「仕付け」あるいは身を美しくするという漢字の「躾」、いずれも「しつけ」をよく表していますね。

この段階での教育がうまく行かないと次の段階に進むことが難しくなるのですが、実際にはこの段階をクリア―できていないことが多いようです。おそらくは経済成長を唯一の目標とする市場原理主義と情報化社会のため、子どもにとっては早い時期に親や教師が相対化されてしまい、絶対に従うべき権威者を見いだせなくなるからかと私は考えています。あるいは親自身がまともにしつけられないままに親になってしまっているということもあるでしょう。このことについては、またいつか述べたいと思います。(以前にもまた述べると言って放置しているテーマですが、まだきちんと言語化できないのです。申し訳ありません。)

さて、彼らの場合、概してこの段階はクリア―しているように思われました。というよりも「しつけ」られ過ぎているように感じたのです。「仕付け糸」はざっと粗めに縫って緩い成型をするもので、きつきつに縫うものでありません。身は受動性を持って始めて美しくおさまるもので自意識が勝っていては姿勢は美しくなりません。

彼らの場合、人の話を素直に受け止めるのは良いのですが、それをモデルケースとして自分をそこに合わせていこうとする傾向が強いように感じました。目的意識を持って一番能率的な手段を見つけることに半ば義務感を感じながら、そのモデルを求めているように見えました。偏差値の高さが、ある意味システムへの順応度である以上、高偏差値のものほどそうなりがちなのでしょう。しかし、おそらく実際には高い偏差値をとる能力があるものほど、既成のレールから外れても自分で軌道修正する能力は高いのではないかと思います。キャパシティが小さいまま無理やり選択するより、まずキャパシティを広げてからゆっくり選択すればいいと思うのですが、とても焦って将来への展望を決定してしまいたがるのは、具体的にやるべきことが見えればやれるという自信があるからかもしれません。焦ることはないし、少々失敗しても大したことはない、と頭ではわかっていても、失敗するリスクに対する恐怖心がとても大きいからでしょうか。ちなみに20代の貯蓄率が高くなっているのも同じ理由かもしれません。

このあたりの社会背景については「なぜ若者は保守化するのか」(山田昌弘)という本に述べられていますが、簡単に言ってしまうと若者が既得権を求めざるを得ないような社会だということです。しかし、既得権自体が不安定になっていくのが今の時代です。せっかくレールに乗ってみてもレール自体が途中で折れてしまうかもしれないのです。大企業に就職できれば安心というわけではないのですね。もちろん職を得ることは生活の上で重要なのですが、それ自体を目的とせざるを得ない時代の中でどんどん若者が委縮していくように思えます。

自らリスクを背負って起業する若者たちもやはりモデルケースをなぞろうとする者が多く、若手起業家たちの発言の同質化は著しいものがあります。同調圧力の強い中で育ってきたからかもしれませんが…

ファーストリテイリング(ユニクロなど)の代表である柳井正さんの「一勝九敗」などのビジネス書を読みながらも、失敗しない方法を探してしまっているのです。もちろんあえてリスクを冒したり、あえて失敗する必要はありませんが…3・11のあとは義捐金を集めることばかりに目を向け、義捐金を集めるだけで社会貢献をしたつもりになっている若手経営者が多かったように思います。「複数の会社で共同で被災地に支社を作り地域と共生するのは?意外に利益出せるかも」と言うと「現実的ではない、リスクがあってメリットがない。あなたは会社経営がわかってない。」と逆切れされました。ごもっとも、かもしれませんねえ。

深い思索力と迅速な実行力と企業の在り方についての理念(どう会社の利益が社会の利益となるようにするか、など)を持って自ら行動するのではなく、成功者のやり方に習う、周囲を眺めてやり方を決めるような若手経営者が多いように思います。それが悪いとは言いませんが、もっと良くなる可能性を自ら封じ込めているように感じてしまいます。
彼らこそ、ケーススタディー型の経営学ではなく、哲学書を読む時間をとればいいのになあ、と思いますが…
ついでに柳井正さんの言葉を引用しておきます。このような厳しい状況の中でも生ぬるいままでいる日本の経営者が、耳を傾けるべき発言だと思います。(週刊現代1月30日号)

「ほとんどの経営者は「不況、不況」と口では言うものの、常日頃から不況に陥ったらどうするかを、深く考えて行動してこなかったのではないか。業績を不況のせいにしたり、自ら決断して行動できないような経営者の会社は、潰れると思います。」
 
「人間は習性として安定を求めます。変化することのほうが異常なんです。しかし、現実に世の中が変化しない限り、成長しません。現状維持で満足してしまったら、もう終わりです。 企業というのは、自分たちで変わって未来を作らない限り、生き残れない。」

厳しい62歳の言葉です。この記事が書かれたのが1月、そして今は3・11後なのです。何もかも震災のせいにしていても何も始まらず、震災前になど戻るわけもなく、変わらざるを得ない現状が立ちはだかっているのです。3・11に限定しなくても、今、世界は方向転換の時期をむかえているのかもしれません。「変化以外に永久のものはない。万物は流転する」(ヘラクレイトス)
話を戻して簡単に締めくくりましょう。
まずはしつけられることは必要不可欠だが、そのあとは能動性と受動性をもって自分で道を模索してみること。あらかじめ敷かれたレールの上を歩いていると、自分の生に対する身体感覚や直感的本能がいつの間にか鈍化していく。時代が変化していく中で既成の鋳型に合わせて自分を成型しきってしまうと、時代の変化の中で無用な部品と化してしまう。もちろん自分を自由に成型できるなどという幻想は捨てるべきだが。

だいたい自分で道つくるほうが楽しいじゃん。多少失敗しても取り返せばいいのさ。当たり前のことだけどね。
道なき道を行け。


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whatかhowか

「勉強の仕方を教えてください」「どうやって復習したらよいですか」から「単語の覚え方を教えてください」などという質問を聞くことが多くなってきました。驚くことには「がんばり方教えてください。」「やる気の出し方教えてください」とまで最近は真顔で求められます。また、世間では「東大に合格する方法」「お金持ちになる方法」といったような本やアフィリエイトがたくさん出回っています。いわゆる「ハウツーもの」ですね。

こういうhowという問いは,何を目指すかという具体的な目標に対して設定されます。ところが、実際には、その目標に対してなぜそうしたいのか、というつきつめた思考がなされていないことが多いようです。「わが子を東大に入れたい」親はなぜ子供を東大に行かせたいかを外国人に納得してもらえるくらいに説明しようとしてみるとよいでしょう。外国の大学でなく東大、日本のほかの大学ではなく東大、大学以外の進路でなく東大、をきちんと説明しようとして真剣に考えれば「べつに東大でなくてもいいかも」と思えるかもしれません。そもそも幼いころから無理やり調教してやっと東大に合格しても、それがゴールとなり、もう「それで終了」「東大卒というレッテルしか自分にはない」という人間になりはてる可能性も十分にあります。そうすると東大合格以上にそのために払った代償は大きいことになるでしょう。「お金持ちになりたい」人は「お金持ちになりたい理由」を徹底的につきつめて考えてみれば、意外に「べつにお金持ちにならなくていいや」という結論にたどりつくやもしれません。調査によると収入と幸福度はある一定程度の収入を超えると相関しなくなるものらしいです。お金持ちになるために代償となるものの大きさも考えるほうがよいでしょう。

おそらくhow to ものに手を出す人は、「努力せずになれるなら」お金持ちになりたいと思って試してみる、という人が大半ではないかと思います。このようなhowは「どうするか」というよりも「具体的に何をすれば目標が達成できるか」というwhatの問いに言い換えることができます。つまり「何を目指すか」という大きな目標たるwhatに対して「そのために具体的に何をするか」というと小さなwhatの問題といえるでしょう。そしておそらくは大きなwhatを突き詰めて考えずに小さなwhatを安易に求めるという傾向が強いように感じます…そもそも大きなwhatなど持たずに、自分の当選と派閥の利益という小さなwhatのみを場当たり的に果たそうとし続ける政治家と称する人たちよりは害はないといえますが…一番有害なhow toですね。

そしてそういう人は小さなwhatを明確に示されてもなかなか実行できないようです。たとえば、「この問題集を今週中にやる」というきわめて具体的なwhatに対しても実行できず、何かと言い訳をさがすことも多いようです。おそらくそういう人に徹底的にかけているのはことにどう向き合うかというhow,つまり「ことに対する姿勢」なのだと思います。 簡単に言ってしまえば、実現可能なレベルの小さなwhatに対しては、相撲の行司のごとく脇差を腰にさし、できなければ切腹、という覚悟を決めればいいだけのことです。本気でそう思うには実際に脇差を腰に差してみることは欠かせません。頭の中だけで誓うだけではその切迫感は生まれにくいものです。そういう身体性が大切なのです。

ところが、「何を目標にするか」という大きなwhatを考え始めると、なかなか結論に達せずどうどうめぐりを始めてしまいます。「人生で何をするべきか」は永遠の問いともいえるかもしれません。それを細分化して「20台で何をするべきか」「30台で何をするべきか」「50歳までに何をするべきか」などというばかばかしい本まで売られていますが、そうまでして人の不安に付け込もうなどとは浅ましい限りで、そういう本を出す人の生き方など学びたくないと思えない人が多いのは不思議なところです。それだけ不安で、横目で隣を覗いて自分の道を軌道修正したいのでしょう。

私自身、そろそろ人生50年が射程に入る年齢となり、自分は「何を」すべきか、「何を」成し得るのかと考えると思考停止に陥ります。何も成し得ないであろう自分が明確に見えてくるからです。しかし、それは仕方のないことなのです。そもそもそれは判断停止が運命付けられた問いなのです。「何か」を達成すればそれは過去のものとなり新たな「何か」が生じるわけですから、結局は果たせぬものを見ながら途中で終了するのが生というものです。「何も果たせぬ」と感じながら生を終えることははじめからわかっていることなのです。今の私にとってそれ以上に重要なことは「いかに現実に向き合うか」というhowなのです。

whatという問いは目的指向的なものです。目標、目的を定めることは大切だ、とよく言われるのですが、目的などしっかり決めたら不自由でかなわないと思ってしまいます。私はhowを先行させた上で暫定的なwhatと向き合っていく、この向き合い方も先行させたhowに準じていく、というあり方を基本としています。つまり、「どう現実とあるいは他人と向き合いたいか」を自分に問いながら、その都度生じるwhatに呼応する。そのwhatに対しても「どう向き合うか」を一貫しながらことにあたっていく、ということです。このことならば一生果たし続けることは可能です。

もちろん、理念を掲げることでwhatから逃避するわけにはいきません。あるいは過程が大切だからといってwhatを棄却するわけでもありません。ただ、目的志向性が強すぎる現代社会にあぶないものを感じています。「大学合格」にいたるまでに勉強に対する向き合い方、「経済的勝ち組」になるまでの経済生活に対する向き合い方は軽視され結果だけが重視されています。これについては、たとえばフランスのアルトナン・アルトーがこういう趣旨のことをどこかで述べていました。「歩行と舞踊が、異なっているのは、歩行は目的地に到着することで行為そのものは意味を失うが、舞踊はある場所へ移動するその過程にこそ意味がある。」うろ覚えなので大分ちがうかもしれません。関係ありませんが、彼の言葉では、次のような激しい言葉が印象的です。「人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。まるで舞踏会の熱狂のようなもので、この裏とは人間の真の表となるだろう。」これは「神の裁きを決別するため」宇野邦一訳です。実に劇的です。
さて、目的志向性が強すぎる現代への批判でした。目的の正当性への十分な検討もなさぬまま、目的達成のためならば手段は問わない、目的を達成したものを勝ち組として評価するという風潮ですね。この風潮は、個体の目的達成が全体の利益を損ない、それが個の不利益にも跳ね返ってくるという観点からも批判可能です。生物学・生命科学と経済学は今や呼応して論じることができるのでしょう。このことについてはまたいずれ述べることとします。
話を戻します。私は「社会や個人や今の問題にどう向き合うか」という姿勢を決め、それを貫こうとすると、whatは自分で考えるまでもなく、その都度、環境が決定するものであり、それに応じて全力で向き合うことが、自分の生であると考えています。最終的に何ができるか、とか、どこまでたどり着けるか、などという大きなwhatも大した問題ではないのです。

こないだ「これからスタート」という私の単科講座で生徒に伝えたことでしめくくります。どうせ、自分はだめなのだ、という様子の生徒が多かったこともあって、私としてはかなり長く語りました。

君たちはそれぞれ立っている場所が違う。それは当たり前のことだ。皆が平等で同じようにやればできるなどというのはきれいごとにすぎない。人は生まれたときからそもそも不平等なのだ。遺伝子も違えば、環境も違う。それは自分で選び取ることなどできないが、自分を決定付ける大きな要因のひとつなのだ。たとえ同じように教育され同じくらいの努力をしたとしても誰もが、モーツアルトに、ピカソに、あるいはイチローになれるわけではない。イチローよりも努力している人もいるかもしれないが、それでも彼並みになれるわけではないのだ。ましてや、もはや17歳や18歳ともなった今、皆が同じスタートラインに立っているわけではないのは当然のことだ。たとえば、これまでの読書量の少ない人は人の二倍努力しても人と同じくらいの進歩しかしないというのは十分ありうることだ。残酷なようだが、それが事実というものなのだ。ただし、受験という分野は特殊な分野ではある。それは対象とする範囲が決まっていて、その範囲の中である程度の割合のことをクリアーすれば合格するということだ。いわば運に左右されることはない。ラッキーに合格、はあっても、アンラッキーに不合格はほぼありえないのだ。ある範囲内のことが常に8割解答できるところまで到達していれば合格できるからだ。社会だとどれほど努力しても上司と相性が悪いというだけで、あるいはどれほど実力があっても上司に判断力がないというだけで、あるいはどれほどすばらしい芸術を創ってもその時代に評価できる人がいないというだけで、すべては無に帰することが多いのだが、受験ではそういうことはおきない。その点では努力が報われる分野だといっていいだろう。それはむしろ例外的な分野なのだ。

先に皆立っている場所は違うし、進む速度も同じではないと言ったが、皆が、誰にでもできることがある。それは、今、自分のいる場所から一歩踏み出すことだ。当たり前のことだが…
今、自分が倒れているとしよう。その自分に問いかけてみる。「君は立てるのか」そうすると君は答える。
「立てるよ、しかし、立って何になるのか。どうせまた倒れるだけなのに…」「しかし立てるだけの力があるなら立ってみてもいいんじゃないか」そうすると君は不承不承立ち上がる。
「立ってみたよ。で、どうするのさ」「まず、右足を前に踏み出す」「そうしてどうなる?たかが60センチか70センチ進んでみたところでどこへも行き着きやしないし、どうせまた倒されるだけだ」「しかし右足を踏み出す力があるならば踏み出してみようよ」
君は右足を踏み出すが、またそこで立ち止まる。「さあ、その次は左足だ」「それで何になるというのだ」と君は食って掛かろうとするが、しかしなぜか左足を踏み出している。
「そう、右、左、右、左、人は一歩ずつしか進めない。誰だって一度に二歩進めたりはしないのだ。どこへ行き着くともしれず、どこへも行き着かないかもしれないが、一歩ふみだす力があるかぎり、その一歩の可能性に賭けるのだ。どこまで行けるかはやってみないとわからないものだ。やる前から結果がわかっているような時代の風潮にまきこまれるな。データは利用するものだろうが自分をデータ化することはない。「平均値」とはあきらめた者を統計化した結果にすぎない。あきらめない者は、どうせ自分は、と以前自身で思っていたところよりは遠くへ行けることだろう。そして一歩踏み出すその過程こそが価値を生み出すのだ。さあ、今、一歩踏み出そう。どこまでいけるかはわからないが、そして小さな一歩にはすぎないが、それでも、一歩踏み出すごとに、変わっていく自分の可能性を確かめつつ…」

初めて自分が話した内容を文字にしてみましたが、恥ずかしいものですね。そしてなんと当たり前のことしか言っていないことでしょう。

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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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