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ポレポレを改訂しない理由

「ポレポレ英文読解プロセス」を世に出してから19年になります。ありがたいことに平均して年に12000部あまり、現在でも年間に12000部ほど売れています。その間、出版側からも読者側からも何度も改訂版、あるいは続編を出すように求められてきましたが、未だに初版のままとなっています。今となっては改訂しにくい、というのが本当のところです。

 この本を書いた時の私は当然今よりも19年若く、今よりもシャープな頭脳だったと思います。目的遂行に一番効率的な手段をとり、無駄を排除しきって最短時間で目的を達成することを重視していました。この本を書くときは、英文の構造を意識して正しく構造を見抜くための本を書くことに意識を集中しました。

まずは例題の選択、そしてその配列を考えました。英文解釈の本はたくさんありますが、例文が幾何学の定理のように必然性をもって並べられているものは他にはほとんどないのではないかと思います。もちろん、すべての参考書に目を通しているわけではないので、配列が見事なものもあるのかもしれませんが。

そして解説をどれほど端的にするか。余計なことを書かないで配列された例題の連続性によって構造把握という作業の一貫性をわからせるか、に絞りこみました。

その結果がこの薄い本なのです。出した当時ご現代文の先生である堀木博禮先生に「人の参考書を読み通したのは初めてだ。英語は読めなかったが、説明の流れがとてもきれいで、一つの文章を読んでいるようだった。」とほめていただき、いまだにこのほめ言葉は私の支えとなっています。堀木先生はもうこの世におられませんが、Z会の「現代文のトレーニング入門編」(入門編といいながら東大京大志望者も得るものが多いだろうと思われる参考書です)でその講義に触れることができます。

ポレポレは配列の意図を察することができる受験生には特に非常に支持を受けて来ました。「英語の対策としてはポレポレを100回くらい読みこんだ」と英語科以外の講師に東大合格の報告に来た河合塾出身の生徒が言うのを聞いたことがあります。その先生に「その著者が横にいるよ」と言われて驚いていました。彼が言うには、初めはひとつひとつの例題で精一杯だったのが、次に一連の流れがわかるようになり、そうなるとその説明を繰り返し読むことで例題以外の英文への適応をできると実感し、何度も読みこんだ」ということでした。100回は言いすぎだろうとは思いますが、私の意図したとおりの利用をしてもらえてとてもうれしかった覚えがあります。また、有数の進学校学校であるラサール高校では学校採用されたことがありますが、選んでくれた先生には私の意図が明確に見えていたのだと思います。

ところが、今の私にはこの本は書けそうにありません。当時よりは格段に英語の力もつき、生徒への説明力もついたとは思うのですが、おそらくこの本を書こうとするとうまくいかないでしょう。

やはり若い時と現在では異なる感受性となっているのだと思います。今書けば、例題を増やし、語彙説明をつけ、読みにくそうな部分の構文はすべて説明し、訳し方の技術も説明したボリューム感のあるものとなってしまうと思います。すると、やり応えのある、説明も丁寧で行き届いた網羅性の高いものができるでしょう。しかし、それではポレポレが本来目的とした「構造把握の根本を一つのものとして理解する」というコンセプトは不明瞭になってしまうでしょう。

今、私は無駄を切り捨て目標を最短距離で達成するというスタイルではなく(受験生にはそれを要求することは多いのですが、それは合格ということだけを目標に設定できるからです)、どちらかと言えば包括的にものを考えるスタイルになっているようです。思考が丁寧になったともいえるでしょうし、シャープではなくなったともいえるでしょう。

それは外見にも表れるようです。kyouji01.jpg
以前のブログにも載せた写真ですが、ポレポレ初版の著者紹介の写真です。なんだか、こわいですね。「寄らば切る」みたいな空気を放っています。今は随分許容量が増えました。そうしてできなくなることがあるとともに、できることも増えていくのが年を重ねていくということなのでしょう。

当時「ポレポレ」という題をつける前にメモしていた言葉を載せて今回のブログを締めくくります。いやあ、幼かったですねえ。(今考えれば初めての参考書によくこんな題をつけたものですし、よく出版側も動物写真や動物の挿絵満載の英語の参考書など許してくれたものです。きっと怖い顔で「こうじゃないと出版しない。他の選択肢はない」とか言い放ったのでしょう。生意気なガキです)

ポレポレ

アフリカのケニヤに行った時のことだ
マサイ・マラのどこまでも続く地平線
僕たちは大地に立っていた
熱い陽射し、吹き上げる砂ぼこり、むせかえるような動物たちの息吹
らいおん、しまうま、ぞう、きりん、はげわし、さい、達の躍動
視界をさえぎるものは何もなく
地平線はいつまでもいつまでも続き
地球は丸いんだなあって実感した。

その地平線の彼方からヌーが走ってくる
ヌーは黒い水牛のような動物だ
ヌーはセレンゲティを目指して走っている
走っているのは一頭や二頭ではない
次々とヌーの黒い姿が視界を埋めていく
気がつくと視界いっぱいに
何万頭ものヌーが走っている
セレンゲティを目指して
中には途中で力尽き、死んでいくものもある
川を乗り越えられずにアリゲーターに引きずり込まれ水の中で息絶えるものもいる
それでもヌーたちは止まることなくセレンゲティを目指す
倒れた子どもを気にしながらも彼らは止まらない
セレンゲティーに到着するまで、彼らは振返ることなく走り続けるのだ
ヌーだ、ヌーだ、どこまでもヌーだ
地平線いっぱいの黒点のようにヌーは続く
その時
ヌーに囲まれて人間は僕たちだけだった
その果てしない疾走を見ながら
果てしなく広がる大地の上で
僕は自分が涙を流しているのに気づいた
何の涙かわからない

ただ涙が流れていた
そう、僕は生きていたんだ
ヌーが走る、その同じ大地の上で、自分は生きているんだ、
ただそれだけのことで涙が流れていたのだと思う
日本に帰ってきて気づいたんだ
地平線の広がらないコンクリートジャングルの中で生活しながら
いつのまにか
遠くを見る目を失っていた
時計に支配されて生活を慌ただしく、ただ消化している
その生活の中で、自分が生きた動物であることを放棄して
自分を歯車に変えようとあくせくしている
自分はなんてちっぽけなんだろう
目の前のことしか見えず、
自分のことしか自分の痛みとして感じられない

ポレポレはスワヒリ語でゆっくりっていう意味だ
アフリカではみんなポレポレなんだ
人も動物も時間も
ポレポレ
この言葉を忘れないようにしよう、と思っている

ゆっくりとはしていられない日本の社会の中にいても
ぼくが原稿を書いているその時も
満員電車の中でおしつおされつしているその時も
君たちが部屋の中で一人で勉強しているその時も
アフリカの大地ではヌーが走っているんだ
そんなことを
ふと、感じられる感性を失わないで欲しい
同じ地球の上で、今生まれ、今死に、今闘っているものがいるのだ

今の生活の中で
自分がどんどんちっぽけに枯れ果てていっていないか
自分だけが苦しいと思い、
他人の痛みも感情も感じられなくなっていないか

偏差値しか見えなくなっていく中で大切なものをどこかに置き忘れてはいないか
君たちは生きているんだ
自分を機械に組み換えようとするな

いきづまったとき
ポレポレ
ってそっと口にだしてごらん
ヌーが走っていくのがみえるだろう
小さく閉じこもりがちな自分が少し開けるだろう
小さくなるな
感性がすりへっていくとしても
それは受験のせいばかりではない
受験ごときにつぶされるな
ポレポレ、
あせるな
ゆっくり
いっしょに
やっていこう

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生きることは殺すこと

生きることは殺すこと、この自明の原点が見失われてしまっています。自分の命が他の生き物の命の犠牲の上に成り立っている、ということは概念としては理解していても実感する機会が失われてしまったからでしょう。

客が来たから鶏をつぶしてご馳走しよう、などという光景は都会では日常的に目にすることはありません。フライドチキンをそれが生き物であったということさえ自覚しないままに食べている子どもも多いようです。

様々な議論を引き起こした「ザ・コーブ」という映画ではイルカを殺すのが残酷だという視点がセンセーショナルな映像とかなり多くのやらせ撮影で描き出されていますが、残酷さという一面だけ取り上げるならば、牛や豚を殺すのも同等のことと言えるでしょう。自然保護という観点でみると別の問題だということになりますが、残酷さに過敏に反応して感情的にイルカ漁を非難するとすれば、それはただ自分の日常生活に対して無自覚だからだと言えるでしょう。

では、菜食主義ならばどうなのか、と言われるかもしれませんが、植物とて生き物、赤い血液は流さないにせよ、命あるものであることには変わりありません。アスパラガスなどの立ち野菜は、収穫してから寝かせておくと立ち上がろうとしてエネルギーを使ってしまい味がどんどん落ちていきますよね。収穫された後でも生きようとしていることがよくわかります。(採ったアスパラは立てたまま出荷し立てたまま売ってほしいのですが、なかなかそうもいかないようです。)

残酷と思おうが思うまいが、ベジタリアンであろうがなかろうが、いずれにせよ、命は他の命を犠牲にして成り立っているのです。この原点に無自覚になると「命」というものが実感できなくなってしまいかねません。生きていることの重みを感じることもなくなるでしょう。

スライスされてパッケージされた肉しか見たことがない子どもたち、トウモロコシが黄色い姿で土から生えていると思っている子どもたち(これには私も驚きました)、食べ物ではありませんが、死んだカブトムシを電池が切れたと称した子どもたち、こういう子どもたちに命を実感させることは難しいでしょう。

今日、口にするものの出自をしばし考えてみる、ということは時に必要なことだろうと思いますし、何らかの機会に屠殺(差別語になっている)の現場を目にすることも重要かとは思います。焼き鳥やで毎日必要な鶏を解体する店も多いので刺激に弱い人はそのあたりから見せてもらうのもよいでしょう。野菜も育てる過程から目にすると随分と違う感覚で食すようになるのではないでしょうか。

「いただきます」が「生きていたものの命をいただきます」だということを実感できることは大切な教育だと思います。

講演会スタッフ、および英語のお手伝い募集

 西きょうじの講演会の運営をサポートしてくれるボランティアスタッフを募集しています。次回講演会は12月初旬を予定しており、それまでに数回ミーティングを行い、役割分担して講演会運営に関わる業務を行なってもらいたいと思います。メインのミーティングは基本的に火曜日の19時くらいを予定しています。それ以外に、講演会直前にはスタッフ間での実務打ち合わせが行なわれることになります。(こちらはメールでのやり取りが増えます)

 次回の講演会のおおまかなテーマは「仕事:社会との関わり方」の予定です。これから仕事を選ぶ人、すでに仕事を始めているが今一度自分の立ち位置を見直したい人などを主な対象に講演したいと考えています。ミーティングでは実務的な打ち合わせだけではなく、講演会のテーマについてのディスカッションも行いながら一緒に講演会を作り上げていく予定です。講演会については私自身も講演料は一切受け取っておらず、基本的に全員無報酬で運営してきましたし今後もそのつもりなので、スタッフに加わる経済的見返りは何もありません。他のスタッフ、および西とのつながりの中で何かを感じ、何かを得られる可能性、一つの事を共同で達成する到達感、多くの来場者(200人以上の来客)や多くの視聴者(40000人くらいの視聴)にコンテンツを提供することによる満足感がスタッフに加わることによって得られるものです。
 これまでの講演会をUstで見てみて、講演会をサポートしたいと思える方の募集をお待ちしています。なお、これまでの講演会はhttp://www.ustream.tv/channel/nishikyouji http://t.co/OqAZ6WjD  http://t.co/KmylJSLy で見られます。
 スタッフに加わりたいという方はツイッターで西きょうじ講演会実行委員会 @kyoji staffに連絡してください。なお、応募者が多い場合は選考させていただく可能性もあります。 

 さらに、こちらはボランティアではなく、英語の仕事のアシストをしていただける方も募集します。不定期で英訳、和訳の手伝いをしてくれる方(英検1級レベルの力が必要です)は西きょうじのツイッター@dowlandjohnまでご連絡ください。ダイレクトメールで返信します。
プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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