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講演会のお知らせ ボーダーズ 境界⇒越境⇒しなやかなセーフティボーダーの生成へ

ボーダーズ

境界⇒越境⇒しなやかなセーフティー・ボーダーの生成へ

私達は様々なボーダー(境界)内で生活しています。ここでボーダーとは、自分と他人、家族と世間、仲間と外部、会社と社会、そして国境、人間とそれ以外の生物、さらには大気圏といった制度的、物理的なものから、自分にとっての超えられない壁(感情的境界線)というようなメンタルなボーダーに至るまで広く含みます。

現代社会においては、ボーダーは刻々と更新されていきます。また、グローバル化によって国境というボーダーが確固たるものでなくなりフラット化の方向へ進む動きとボーダー内の独自性を維持しようという動きがせめぎ合っています。

今や既存のボーダー内に自分のセーフティーエリアを確保することは難しくなりつつあります。ですからリスクを冒してでも越境することが自らの安全確保のために必要となってきます。また感情的境界線を超えるのは思考や理念ではなく行動、つまり現実的な実践なのだということを具体例を示しつつ説明します。「自分を変える」と口に出す人が自分を変えられない理由は自分の環境を変える実践的行動を伴わないからなのです。

しかしそうはいってもボーダーレスというのは生命、自己、共同体の維持を脅かすものですからどこかに自らを守るためのボーダーを設定する必要があります。

今回の講演会では、既成のボーダー、自分で心理的に作り上げてしまったボーダー内で安住を求めることの危険性、さらにそのボーダーをどう越境していくか、そして自分や共同体を維持するためにしなやかな透過性の高い複数のボーダーを生成していくというゴールを目指して話します。

「まずは聞く力、読む力、受け入れる力を養うことから外部とつながれる自分を作ろう」というポレポレ課外授業第1課(「踊らされるな、自ら踊れ」の原型となりました)、「自分の殻には閉じこもっていられない、扉を開けよう、点から線へ、線から面へ」というポレポレ課外授業第2講、「人とつながるための武器としての言語」というポレポレ課外授業第3講、「社会と自分をつなげる仕事というものへの向き合い方」について考察したポレポレ課外授業第4課(いずれもUstで無料視聴可能です)を踏襲しながら、これからの時代の中で自分や共同体を守りながら新たな可能性を開いていく方法について一緒に考えていきましょう。


6月30日(日) 西きょうじのポレポレ課外授業 第5課「ボーダーズ〜境界⇒越境⇒しなやかなセーフティー・ボーダーの生成へ〜」申込開始です。下記フォームよりお申し込みください。  http://my.formman.com/form/pc/aQNBoUaFE4UcIJZf/ …

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twitter上のリプライについて

ツイートの趣旨がうまく伝わらずに、リプライを見て意表をつかれて自分の表現力のなさを突き付けられることがこの頃よくあります。

あらゆる誤読は美しい、とプルーストは言っていますし、また様々な解釈を生むことがダイナミックスを生む可能性もあるとは思いますが、それにしてもどうして発言の意図が伝わらないのだろうといろいろ考えてみました。

ひとつには一部の人は初めから「いいね」と思えるツイートを探している、つまり自分が同意できるツイートを見つけることで自分の考えが強化される(「みなそう言っているし」)のを求めているのではないか、ということがあると思います。

あるいは、それと同様のことの裏返しですが、自分の考えへの共感を求めたい気持ちが先行して、それに反するように見えるツイートに対して、深く考えることもなく脊髄反射的な反発をそのまま発言してしまう、という傾向もあるのではないか、と思います。そういう場合、たかが140字であってもそのすべてを読むのではなく、その中の一部のフレーズに反応してしまうということも多いようです。

アインシュタインは「知性とは自分からどれだけ離れられるかだ」というようなことを言っていますが、そういう点で知性に欠けている人が多いのでしょう。これは知的レベルが高いとされている人たちにも、いや自分の考えは確固たるものだと思っている人たちにこそ当てはまるのかもしれません。

先日、私は次のようなツイートをしました。

皆が安心して暮らせる社会を目指すとかいう人もいるが、そんな社会はこれまでもこれからも存在しない。安心という幻想は自らに麻酔をうつものの戯言に過ぎない。生きているということはリスクを伴うのだという当然の認識を出発点とした上で、どうすれば比較的リスクを回避できるかを模索したいものだ。

このツイートで言いたかったことをまとめるとこういうことです。

まずは絶対的な安心などは存在しない。生きているものはみな不確定にさらされているのであり、生は次の瞬間に死ぬ可能性を常に孕んでいるのだということ。これは当たり前のことでありながらある程度以上平和な社会に生きていると忘れてしまいがちなことです。メメントモリ(死を想え)という言葉を座右の銘としておきたいものです。死が意識された生だからこそ生の重み、充実感、輝かしさを実感できるとも言えるでしょう。

 次にリスクが常に身近にあるのだということは震災や原発の恐怖を実感した3・11以降の共通認識だといえるでしょう。喉元をまだ過ぎぬうちから忘れたことにするわけにはいきません。しかし、人は「絶対、安心」「皆が安心して」などと言ってくれる人に寄りかかろうとしがちです。そして寄りかかることで自らの責任と行動を放棄してしまうのです。「原発は絶対安全」と言い続けられてきた言葉がどう裏切られたのかを知った直後だというのに。もちろんそういう発言をする側は、責任を放棄すること、自らに麻酔を打つことによって居心地良くなれるよ、と誘惑しているのです。

しかし、自分の安心感を人にお任せするわけにはいかないのは自明のことでしょう。もちろん、自分だけで自分が安心できる環境を作ることはできませんから、自分を含むより大きな社会(地域や国)に働きかけることも必要になります。そうすることでリスクを減らしていくことが可能になります。

リスクゼロなどはあり得ないと認識したうえで、どうすればどのリスクを軽減できるのかを具体的に見極めて行動していくことしかないだろう、自ら行動しないで安心感を求めるのは、こどものおねだりと同じ感性なのだろう。

ついでにいうと、受験生が「これだけ覚えれば大丈夫ですか」とよく聞きに来ます。不安な気持ちも「大丈夫だ」といってもらいたい気持ちも十分にわかりますが、私はこう答えます。「単語をいくつ覚えればもう未知の単語に出くわさなくなる、ということはない。どれだけ覚えてもまだ足りないのだよ。しかし1つ覚えれば1つ分は不安が解消されるだろう。そして読解力をつければ未知の単語の類推も可能になる。多少知らない単語があってもまあまあ読み進められるようにはなるよ。だからゴールを決めないで1つでも多く覚えることで1つずつ不安を解消していこう。さらに言っておくと入試は大体7割の得点率で受かるのだから完璧など目指さなくてよい。勉強の途中で受験し、ある程度を超えていれば受かるものなのだ、と考えておこう。」

社会システムなどはそもそも虚構から成立しているのですから、そこに完全性などありえない。だから一つずつ補修したり改築増築していったりすることでその時々に想定される理想型に近づけていけばいいし、理想型そのものも変化していくことは想定しておくべきでしょう。いきなり理想を実現可能であるかのように語るものはおそらく嘘つきだと言えるでしょうしそれこそ社会にとって大きなリスク要因ともなりえます。

さて、このツイートへの反応を紹介しておきます。リプライしたくれた方をさらすことになりますが、つるしあげるようなことをするつもりはないのであしからず。

(1)それは精神論だと思います。(この表現が妥当かどうか微妙ですが)。 実際は国策ひとつで、あるいは国が国民をどう考えているかで(大抵は搾取の対象ですが)そこに暮らす人々の明暗や運不運が決まります。全て(とはいいませんが)構造の問題だと思います。

確かに構造によって人々の明暗が決まるということは言えるでしょうが、本来的には国の形を作るのは人々であるということも忘れてはいけないでしょう。とはいうものの、この反応が私のツイートのどこから生まれるのかが理解できません。自らの責任を果たさず自らのリスクについては麻酔を打って(もらって)「(発展の)利益だけは受け取りたい」「安心を恵んでもらいたい」という「人々」の心性が今の「国」を作ってきたのではないでしょうか?国と人々を2項対立としてとらえることはできません。

同じ方の次のツイート
(2)圧倒的な無力感をお持ちでそれを前提にそんな社会はないと断言されていたので、それは違うんじゃないかと思い、ついツイートしました。安心して暮らしていける社会は皆で作っていくしかないと思います。それぞれがいなごのようになって体制への無関心をやめれば実現可能だと

結論は大いに賛成で私もツイートの最後でそう言っているつもりです。しかし「圧倒的無力感」をどこから読み取ったのでしょう。たとえば「人と人が完全にわかり合うことなどない」というのは当然のことで、理解不能性を前提としたうえで一歩でも理解していこうと具体的に糸口をたどっていくのが正当だと私は思っています。理解不能性を「圧倒的無力感」と言ってしまうならば、「理解可能だ」は「妄想的全能感」とも言えるでしょう。「話せばわかるはずだ」とか「人間同士わかりあえるはず」というのは傲慢というものでしょう。「話せばわかるはずだ」と言いながら話そうとする人と話すとたいていはこちらが疲れ果ててしまうものです。「話せば今よりはわかるだろう」「人間同士だから理解可能な部分も多いにあるだろう」という言い方に留めておいて頂きたいものです。

さらに別のツイート
(3)先人たちの努力で、戦国時代や第2次大戦中に比べれば、現在日本は、安心して暮らせる世界になっていて、戦争に対するリスクがかなり低くなっています。故に、安全で安心できる社会を目指すことは、幻想に惑わされて、麻薬をうちながら行動しているものが行ってはいない。

「幻想に惑わされて…」以降がツイートとずれてしまっています。おそらく自分の考えや行動を否定されたように感じてしまったゆえの反応だと思います。私が「完全な安心」という幻想は、と書けばよかったのだなと反省しました。結局、「より安全な社会」は「絶対安全」などという宗教的理念を振りかざすのではなく、自らもリスクを常に実感しながら模索しつつ作り上げていくものだという私がツイートで書きたかったことと同じ方向を向いている人が過剰に反発するという不本意なこととなってしまいました。もちろん、先人がリスクを軽減してきた部分を否定する内容をツイートに書いたつもりはありませんでした。(まあ新たなリスクも生んできたのですがね)

発する側にも受け取る側にも言葉への配慮が必要なのだな、というのが今回の結論。またまた「当たり前のこと」ですが…

プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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