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学び続けること~生のダイナミズムの享楽へ

「そもそも」最終回の後半部分の下書きです。

学ぶことについて、もう少し抽象度をあげて考えてみることにする。昔から講義で言い続けてきたことだが、最近読んだ千葉雅也「勉強の哲学 来たるべきバカのために」「動きすぎてはいけない」に触発されて(誤読しているのかもしれないが、プルーストは「すべての誤読は美しい」と言っているので容赦願う)、思考がとても整理されたように思う。
特に前者「勉強の哲学」はこのコラムの読者にはとても参考になるだろうし、楽しめるだろう。一読をお薦めする。

何かを学ぶというのは、新たなことを外部から取り入れ、それを自分のものとして消化することだ。学ぶことによって自分の思考(内面)に変化が生じる。何かを学ぶと学ぶ前の自分とは変化しているわけだが、学んでしまうと学ぶ前の自分に戻ることはできない。よく考えてみると学ぶとは恐ろしいことだ。他者(自然物であれ本の著者であれ学ぶ対象)によって、それまでの自分が不可逆的に破壊されるわけだから。

 ここで、自己は外部環境とのつながり(生物学的ネットワークや社会的ネットワーク)によって形成されているということを思い出してみよう。すると何かを学んだあとは、そのつながり(特に社会的ネットワーク)のままでは居心地が悪くなるはずだ。これまでの自分が最適化されているネットワークに新たな自分が適合しているはずがないからだ。人間関係で考えるとわかりやすいだろう。自分が変化してしまうと、今までの仲間とこれまで通りに付き合うのは難しくなる。酒を飲まなくなるとか、映画の好みが変わるとか、新たな趣味にはまり始める、といったようなことでも人間関係の在り方が変化する可能性もある。付き合わなくなる相手もいるだろうし、付き合い方を変化させつつ付き合い続ける相手もいるだろう。もちろん、新たに付き合い始める人も生まれるはずだ。話を戻すと、学ぶことによって、いくつかのつながりが切断され、いくつかのつながりは更新され、あらたなつながりが生み出されることになる。しかし、当座は以前の環境との不適合に居心地の悪さを感じることになるだろう。

 そのような居心地の悪さをあえて作っていく必要があるのか、と思うかもしれない。おそらく、そうしなければいけない必然性はない。しかし、そうしたほうがいい、という理由はいくつかあげられる。

 まず、繰り返しになるが、自己は外部との関係性によって形成されるものだ。単行本「そもそも」の副題はEverything is connected to everything elseだ。あらゆるもの(人)は決して単独のままで存在しえないのだから、原理的に孤立することはないのだ、ということを示すための副題だが、逆につながり(特に社会的ネットワーク)を過剰に意識してしまうと、がんじがらめにされてしまって身動きしづらくなる場合もあるだろう。

外部環境に支配された状態、あるいは環境に最適化した状態が続くと、ダイナミズムを失い窒息してしまう可能性もある。人間関係で考えてみるとわかりやすいかもしれない。いつも同じメンバーとのみ付き合っていると、自分のキャラが固定されて、そのキャラから逃れるのが難しくなってしまう。同じキャラを演じ続けなければいけないという義務感によって自分の持つ可能性、多面性が押しつぶされてしまうような感じになるだろう。これはうつ病の原因にもなりうるものだ。前回のコラムでは、うつ病からの脱出法として、新たな弱いつながりがつくられる環境に入ること(人薬)、あるいは、近しい人たちとのつながりをフラットなものとして結びなおすこと(オープンダイアローグ)を示した。うつ病ではなくても、人間関係を更新することは、閉塞感に支配されてしまわないために必要なのだと思う。また、個人の苦しみは環境の更新によって解消されうるものだということも重要だ。

また、過剰な人間関係(数であれ濃密度であれ)は、人を息苦しくさせる。そういう場合はつながりを切断する必要があるだろう。これは、SNS上で、様々な人への反応を余儀なくされる状況を考えればわかりやすいと思う。あれやこれやのコメントに「いいね」を押し続けることが強要される状態など考えただけで窒息してしまいそうだ。そういう場合はつながりを切断する必要がある。しかし、やみくもに片っ端からつながりを切断すると、孤立、孤独という現代病(イギリスでは孤独省を設立したくらいだ)に陥ることになるし、つながりを失うと自己を失うことになる。しつこく繰り返すが、自己は関係性によって成立しているものだからだ。

すると、過剰なつながりを選択的に切断するということになるわけだが、そのためにはこれまでとは異なる視点を身につけなければならない。自分がどういうつながりの中にいるのかを、自分から離れて客観視する必要がある。それは自分ではない対象に没頭する、つまり学ぶことによって得られる視点だ。日常的な惰性から脱却し、自己を対象化して初めて、自分をとりまく様々に交錯するつながりが認識でき、その認識に基づいて選択的につながりを切断する、つまり能動的な自己破壊が可能になる。

もちろん、つながりを切断したら自由になれるというわけではない。自己が関係性によって成立するものである以上、あらゆるつながりから解放されるということはありえないからである。また、煩わしければどのつながりでも自由に切断できるというわけでもない。たとえば、自分を自分の過去と切断してしまうわけにはいかない。自分が生まれつき持っている特性(遺伝や生まれた環境)や自己形成の歴史から完全に逃れることはできないからだ。自己形成の歴史を概観して現在の自分を新たな視点で位置付けることは可能だし、また必要なプロセスだが、過去のしがらみからすっかり解放されてゼロから始めよう、などということは、安易な思考放棄、責任放棄に他ならない。これはこのコラムで自由意志について述べたことに通じる。
 
さらに、外部環境自体も変化していくものだ。すると、適応していくためには自分も変化する必要がある。変化を拒み、現在のアイデンテティに固執していると、つながりが健全に機能しなくなることになる。新しい周辺機器と接続できなくなったアイポッドのケーブルみたいな存在になってしまいかねない。自分をバージョンアップしてはじめて、変化していく外部環境との健全なつながりを維持できるのだ。
 
そう考えると、学ぶことで自らを変化させるは有効なことであり、その中で、これまでのつながりのいくつかを切断し、新たな形で結びなおす、あるいは新たなつながりを作るというダイナミズムこそが、求められているのだという結論に達する。もちろん、あえてそうしなくても、表面的に少しだけ変化をうけいれることで、これまで通りの延長線上に生をつないでいくことも可能ではあると思うが。

学ぶ対象は書物に限るわけではない。建築家のアントニオ・ガウディは「人間が作り出すものは、すでに自然という偉大な書物に書かれている。」と述べている。自然散歩中に見かける樹木や草花、コケやキノコからも学ぶことは多い。しかし、自分の変化を促すほど学ぶには、対象にのめりこむことが必要だ。私自身、コケをしっかり観察し続け、集中的に知識を増やしていくことで、ものの見え方が大きく変わった時期がある。その過程においては散歩していてもコケしか目につかないという状態になり、目的地までまっすぐに歩いていくことが難しくなる。視野狭窄的にコケにのめりこんでいる状態に、キノコの存在が越境してくると、自分の中に菌の世界が広がり始め、自分をとりまくつながりを新たに知り、自分の思考にも新たなつながりが生じていることに気づく。

そうはいっても、学ぶという行為で最も有効性が高いのは読書だろう。自分の言葉でない言葉に虚心坦懐に向き合うことで、自分の言葉、思考がのっとられ、自分の世界が破壊されることになるからだ。読書に関しても、ある本に出合って触発されたら、その狭い分野に限定して集中的に読みこむのが良いと思う。その分野のことしか頭にない、という状態を一時的に作ってみるのだ。縦に深く掘り下げていくと、横に広がる水脈にぶつかることもあり、そういう時には目の前がいきなり開けたような感覚が生じる。「本は10冊同時に読め」(成毛真)という考え方もある。これはビジネスに生かしたければ異なる分野を越境しろということであって、そうすることで思わぬものがつながることもあり、新たなアイデアを得るにはよい戦略だ。しかし、それによって新たな自己(自己破壊)は生じにくいだろうと思う。私自身はジャンルの異なる本を数冊同時に読むことが多いが、これは「学ぶ」というよりは、思考を刺激して活性化することが楽しいからだと思う。

 ここで問題になるのは、つながりを切断するのは意識的に行えるのだが、新たなつながりを作ることについては、偶発的な要因が大いに関係するということだ。つまり、選択的に切断はできるが、意図したとおりにつながりをつくることは難しい。新たなことを学ぶと未知の領域に入るのだから、その前に立てた予定通りに進むはずはないのだ。再び人間関係で考えてみると、意図的にだれかとのつながりを切ることはできる。そして、新たな人とつながりをつくることも意図的にできなくはないが、それがどういうつながりになるかは予想できないということだ。ましてや、偶発的に出会う新たな人とのつながりの先行きを予想することは不可能だ。
ここまで、人間関係を例に挙げてきたが、人間関係を主題にしているわけではない。

ここまでの内容を整理してみる。まず、学ぶためには、対象に出会う必要がある。出会いというのはいわば中動態的なことで、新たなものに主体的に出会うことはできない。しかし出会うためには能動的に自分の世界から一歩外に踏み出してみなければならない。自分の世界から踏み出してみる、予期せぬ対象に出会う、対象に没頭し一時的に視野狭窄になる、するとこれまでの自分の世界から引き離されることになる。そこで、あらたなことを学び取り、自分も予期せぬ形で変化してしまい、これまでの自分(環境とのつながりのいくつか)が破壊される。 主体的、選択的に環境とのつながりを切断することはある程度可能だが、その次の段階でどういうつながりが生じることになるか、は予測しがたい。

 学び続けることとは、自己を破壊し、偶有性の中に積極的に身を投じ続けることだとも言えるだろう。これは恐ろしいことに見えるかもしれない。しかし、そこにこそ喜びがある。決まりきったレールの上を段階的に進んでいこうとしたり(しばしばそうしようとしてもそうならないものなのだし、そこにも必ず偶有性が関与することになるのだが)、既存のつながりを固定的に維持しようとしたりする(これも自分を閉塞へと追い込むだけだ)という姿勢では生のダイナミズムを享楽することはできないだろう。「〜歳までに学んでおくべきこと」などというのがあまりにも人生をバカにしているフレーズだと思う。先にあげた「本は10冊同時に読め」(成毛真)では、「ムダを排除し、将来だけを見つめて最短距離を走り抜けるのでは、周りにある多くのチャンスを逃しかねない。何より、そんな人生はつまらないではないか」と書いてある。生まれてしまった以上、人生を楽しみたいものだ。ここまで、学ぶことの必要性についてずいぶん書いてきたが、実は学ぶことは楽しい、というのが出発点だ。偶然出会う対象に一時的に没入してしまう(何かにハマる)ことは快楽を伴うものであり、世界の豊かさを実感できることになる。偶有性を受け入れ、予定調和に回収されてしまわないからこそ、自分は予期せぬ新たな自分になりつづけ、自分だけの生を、生のダイナミズムを享楽できるのだ。

 最後に、フランスの哲学者ジャック・デリダの言葉を引用してしめくくることにする。
「誰かが、あなたかも知れず私かも知れない誰かが、進み出て、そして言う。私は生きることを学びたい、終に、と」(「マルクスの幽霊たち」

 

 
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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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