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「シェアリング エコノミーについて」 サロンオフ会のメモ

西きょうじサロン「ポレポレ現代社会読解トーク」オフ会10回目のテーマは「シェアリングエコノミー」についてでした。今回、私が話したことをまとめておきます。やや長いです。電車でスマホ、という感じだと疲れると思います。時間の余裕があるときにどうぞ。オフ会では私のコメントに続けて参加者それぞれのコメント、ディスカッションへ続いていきました。「彼女はシェアできるか」なんていう話題が飛び出し、かなり変なところで盛り上がったりもしました。
 今シェアリングエコノミーという分野が広がっている(Air B&Bやウーバーやネットフリックス, スワップドットコム、シェアハウス、家事代行などなど)が、歴史的に見るとシェアは石器時代、狩猟採集生活から始まっており、人間の脳の構造はその頃に定着したものなので、人間の本能にシェアリングエコノミーは埋め込まれている、といえる。シェアーというのは、生後間もない赤ん坊にも見られる特徴でもあり、また吸血コウモリなど人間以外の動物にも見られる(これは「そもそも」に書いたと思う)特性でもある。また、フェアネスを支持するというのは、チンパンジーの行動にも見られる特性だ。だからフェアなシェアリングというのは単なる空想的な理想主義とは言い切れないだろう。社会システムとして真に公正なシェアリングを実装した近代国家は今だみられない(共産主義という夢想はあったし、福祉国家構想もある程度までは成功したこともあったが…)が、ピケティなど格差を解消しようとするスタンスの本が売れているのは行き過ぎた格差をアンフェアだと感じている人が多いからだと思う。市場経済のグローバル化と過度な個人主義の正当化によって一部の企業が国境を越えて国家以上の力を持つようになった結果だということもできるが。

 その後、言語を備えた概念としてのシェアリングが定着したのは古代ローマだと考えられる。共有資源(コモンズ)についてはこの頃に議論の対象となっている。私的所有という概念(特に土地の私有)が高まっていったのは帝国主義の時代を経験した後、18世紀19世紀のヨーロッパ、アメリカにおいてだ。帝国主義時代には、コロンブスたちは、上陸した土地で、私有概念の希薄なネイティブたちのものを次々と奪い取りながら(かれらは共有だと思っているので何でも人に手渡してしまう)、自分たちのものには手を触れさせない、手を触れたら虐殺するという非対称性を示した。ちなみにネイティブアメリカンは今でも土地の私有という概念を受け入れていない。

 その後、産業革命とともにdomesticityという概念が誕生し、私有概念が急速に高まっていくことになる。日本では、江戸時代には長屋があって(今も残ってはいるが)、屋根を共有し、私有概念はもちろんあったものの、必需品の貸し借りはかなり頻繁に行われていた。同じ屋根の下に暮らしているタワーマンションの住民とはまったく異なる「同じ屋根の下」だった。また、この時代には、「かせぎ」以外に「つとめ」を果たすことが義務づけられ、それによって自治を共有していた。つまり、地域の橋や道の修繕作業などは町民がシェアすべき仕事だった。

 近代的資本主義と個人主義が支配力を高めて行くにつれて、個人個人が「もっと浪費し、もっと消費する」文化が広がっていく。もちろんこれは持続可能ではない。現在、環境汚染、地球の温暖化は限界に近づきつつある。たとえば、海洋に投棄された莫大なゴミが太平洋上でゴミ大陸を形成してしまっている。このゴミ大陸は「グレート・パシフィック・ガービジ・パッチ(The Great Pacific Garbage Patch、GEGP)」などと呼ばれているが、『nature』の「Scientific Reports」オンライン版によると、船舶と航空機による調査でゴミの総量は少なくとも7万9000トン、広さは160万平方キロメートルフランスの面積の約3倍と見積もられている。 

 また、2008年のリーマンショックでこのまま経済が成長し続けるわけではないと実感することになる。そのあたりから、シェアリングエコノミーが広がっていくことになった。考えてみると、そもそもインターネットは情報をシェアするものであり、あるいはそのオペレーションシステム自体も(Linuxのように)シェアすることで普及していったわけだから、(マイクロソフトは独占しようとしてきたが… )インターネットとシェアリングエコノミーはもともと親和性が高いもので、ネットによってシェアエコノミーが拡大することになったのは当然の結果だと言える。

 そう考えると、ミレニアム世代(デジタルネイティブ)がシェアリングを抵抗なく受け入れるのは自然なことなのだろう。自分の世代、いや自分だと、腕時計や万年筆はシェアできないなあ。(使うときには身体の一部として機能しているものだから、ほぼ自分の身体のように感じているから、かな)シェアエコノミーは金銭の節約にもなり、捨てる物も減り、環境にもやさしいが、そのような動機では一時的な流行に終わりかねない。しかし、シェアリングエコノミーは一過性の流行ではないだろう。というのは、それを根底で支えているのは、利他的本能、フェアネスの本能、あるいは人との関わり、承認欲求、さらには「孤立」しがちな社会においてメンバーシップへの帰属が得られるという人間として根本的な部分に深く関わるものだからだ。理念先行型の運動というのは、途中で消滅しがちだが、シェアリングエコノミーは、経済的に生活の助けになるだけでなく、本能的に受け入れられるものだという点で持続可能だと思う。

 そもそも、ちょっと考えればわかることだが、私たちはドリルというものがほしいのではなく、穴を開けるということが満たされることを望んでいるわけだ。ドリルというものは共有であっても何の問題もない。DVDも同様で、映像を観るという体験を望んでいるならばレンタルDVDでもよいわけだが、ものを排除したネットフリックスのほうがさらによいということになっていくだろう。「ものからことへ」というのはよく聞かれるフレーズだが、まさに体現されつつあると言える。ちなみに旅行産業でも「こと」体験を売り物とする商品が増えている。

 さらに、単に節約というだけではなく、たとえばカーシェアでは、「今日はBM,明日はキャンピングカー」というような選択によって所有ではなかなか得られない楽しみを得ることもできるようになりつつある。やはり、楽しい、ということが付随してこそ広く受け入れられやすくなるのだろう。
 
 シェアは大きく分けてPSS(所有しなくても利用した分だけお金を払う。カーシェアやコインランドリーなど)、再分配市場(メルカリやスワップドットコムなど、不要品の買い取りや物々交換)共同型ライフスタイル(時間や空間やスキルやマネーの共有、家事代行、シェアハウスなどもここに含まれる)の3つに分かれる。

 再分配市場においては、その信頼性を維持するために上からのルール規制ではなく、メンバーシップによる評価システムが活用されている点に注目したい。リーダーがいたりルールがあったりする上から下への治安維持システムよりも、横につながるネットワークによる維持システムは、これからの組織のありかたを暗示しているように思われる。

 ぼくは特に共同型ライフスタイルに興味がある。ネットフリックスでは映画評が20億件もあるし、アマゾンでも商品レビューは無料でシェアされている、宣伝か否かを見極める必要はあるだろうが、基本的に人の役に立ちたいという気持ちあるいは何らかの承認欲求が働いた結果だろう。つまり、そこには経済的等価交換ではない、贈与、あるいは評価経済というシステムが機能しているのだろう。孤立が進んでしまった(イギリスでは孤独省まで作られた、孤独が健康をむしばみ、国家経済に大きなコストとなっているからだ)現代社会において、シェアエコノミーはつながりを取り戻す手段ともなりうる、という点に注目したい。 

 話は変わるが、「借りの哲学」と言う本を読んだ。ここに書かれている理念はあまりに理想主義的だとは思うが、ともあれ興味深く読めた。乱暴に要約すると、人は「借り」を生まれながらに背負い、「借り」ながら生活している。人それぞれ生まれながらに与えられているものは異なるし、平等であったりはしない。しかし、多く与えられたものは多く社会に返すべきだし、少なくしか与えられていないものにはその個性を発揮できる場を社会が提供すべきだ。そうすることで、共同体のつながりを復活させて行こう、という話だ。とても共感できるのだけど、私有財産の拡大にばかり目が行く現代の風潮にそのようにそういう制度を実装できるのか、と思ってしまう。しかし、考えてみると、シェアリングエコノミーは一つの解決策になりうるのではないかと思う。

 セルフメイドパーソンと自称する個人主義者、特にIT関係、投資関係の金銭的成功者は、無料でネットという新たなインフラを利用している時点で大きな借りがあるわけだし、情報や人間関係についても大いに借りはあるだろうが、それを見ないことにしていることが多い。自分の力で成し遂げたのだ、という誇りは大切なのかもしれないが、大体においていくら努力しても、先人が作ったインフラと社会構造、さらに幸運がなければ、個人の経済的な成功などありえない。社会的に成功した人ほど、大きな借りがあるわけで、それは貸し手くれた相手(不特定過ぎて返しようもない)に返すのではなく、多くの人とシェアすることで社会に、あるいは将来の世代に返していくというような意識が必要なのだろうなあ、と思う。

ぼくたちが生まれ育ってきたこと自体、親や他の人たち、生まれ落ちた環境に「借り」があるわけだけど、個人主義的に「借り」をかえさなければならない、と思うと重荷に感じるだろう。むしろ、貸し借りは世の常だと考え、個人の殻を破っておけば楽になるし、風通しもよくなる。自分にできないことなんて誰にもあるのだからそれは人の力を借りる(お金を払ってアウトソーシングするのではなく)、自分にできることで人にできないことがあれば自分の力を人に貸す、これが常態だと思えば、社会(共同体)はうまく回るのではないか、と思う。もてる力をシェアするというだけのことだが。

 キリスト教圏では、社会的成功者が寄付をするというのは半ば義務づけられている、というのはそういうことなのだろう。oweは「借りがある」という語であり「義務」につながるが、I owe youはIOU(借用書)を意味するが、I owe something to youでは「somethingはあなたのおかげだ」というような「感謝する」意味を表す。 「義務を感じる」というよりは「ありがとう」という方がお互いに気持ちいいだろうなあ。また、own「所有する」はoweを語源とする語である、ということは銘記しておいてもよいだろう。
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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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