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流れていく日常の中で、立ち止まる勇気を持とう

レールの上を歩いているという幻想


日々の生活や、目の前の仕事に精一杯で、毎日気がつくと眠る時間だ。自分らしく生活しようとしていながらも慌ただしさの中で何となく流されていっている気がする。政治や経済のニュースを見て漠然とした不安は増大するが、今ひとつ身近なことには思えない。AI技術の進歩によって、時代の変化が加速していると言われても、自分がどうしたらいいのか見えてこない。今ある仕事の半分がAI技術に取って代わられるというが、周囲も自分と同じように生活しているようだから、とりあえず今は見ないことにしておいてもいいんじゃないか、と思う。AIによって新たな職も生まれるだろうし、いざとなったら考えることにしよう。自分だけが頑張っても、どうなるものでもないし。頑張ろうとすると、今まで歩いてきたレールを踏み外してしまいかねない。
 そんな感じで生活している人はけっこういるのではないか、と思う。実は、ぼくもその一人だ。しかし、既存のレールが続いていくというのは幻想だ。

 やりたいことが見えているならば今すぐ踏み出す(「準備が整ってから」では期を失う)


そうではなくて、自分にはどうしてもやりたいことが今ある、という人は、即行動することが大切だ。スキルなどは走りながら体得すればいい。準備を整えてから、とかいうのはいいわけに過ぎない。そして新しいことを始めるための準備が整ったりはしないものだ。思い切って走り出せば環境も変わるしチャンスも生まれやすくなる。だから、新たな領域に思い切って飛び込んでいこう。ネットが普及した今では、支援者を見つけるすべもたくさんある。ただ、いわゆる社会的に成功した人たちの後追いはしない方がいい。成功ストーリー的な自己啓発本など即捨ててしまうことだ。時代は急速に変化しているのだから、やり方をまねることに意味はない。新たなことのためのレールなど敷かれているはずもない。

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎「道程」))という精神で道を切り開いていってほしいと思う。ちなみに、この詩については、できれば初出の全文(「高村光太郎全集第19巻」筑摩書房)を読むことをおすすめしたい。最終的には最後の1小節だけが作品として残されたのだが、それに至る長い記述はとても感動的だ。この最後の小節の直前にはこう書かれている。

 「歩け、歩け
  どんなものが出てきても 乗り越して歩け
  この光り輝く風景の中に踏み込んでゆけ」
やりたいことがあるならば、行動を起こすことが大切だ。Z世代の起業についての記事などを読むと、なおさらそう思うし、それを応援するのが僕たちの世代の役割だとも思う。

やりたいことがみえないならば

しかし、今、どうしてもやりたいことがあるというわけではないが、今のままでいいと思っているわけでもない人は、一度立ち止まってみよう。実は「道程」の中にも以下のような部分がある。

「僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た」

ここでは、歩こうとしても歩けなくなってしまった状態が書かれているが、何となく歩いている状態を意識的に中断して、一つところに立ち尽くしてみることにも意味がある。ペダルをこぎ続け続けていなければ倒れてしまう自転車に乗っているような生活の中で、あえて立ち止まるには勇気が必要だ。しかし、立ち止まって振り返ってみること、今の自分の立ち位置を確認してみること、そしてこれからの時代に向けて自分の姿勢を立て直すことが、必要な時期もある。オフラインの時間を作ってゆっくり考える時間をつくってみることで、日常の情報フローをデトックスするのは有益だ。日常から離れて自分の過去や自分の置かれた環境について考えてみると日常見失っていた様々なことに気づくだろう。

僕たちがいま・ここにいるのはたまたまである


「そもそも」という連載コラムで「ぼくたちがいま・ここにいるのはたまたまである」という書いたことがある。(この連載は相当加筆修正して12月に新書として出版される予定だ)。ぼくたちは、自分の意志が関与しない状況で、産み落とされ(be born「生まれる」は受動態だ)、たまたま与えられた環境の中で育てられてきた。自分の力で生まれ、自分の力で育ってきた人間などいない。考えてみると、生まれてから大人になるまでに、親を含め周囲の人や環境からとても多くの「借り」を受けてきたのだと気づく。当たり前のことだが、普段はなかなか意識しないことだ。

 特に社会的に「成功した」人は、自分の努力と才能によって成功したのだと思い込みがちだが、実は運も必ず関与しているし、インターネットや交通システムといった社会の既存のインフラの恩恵を受けているはずだ。いわゆるセルフメイドパーソンはアメリカンドリームの理想とされてきたが、「セルフメイド」など幻想に過ぎない。
しかし、だからといって「借り」を返さなければいけないという義務感に駆られてしまうと、あまりにも不自由な人生になってしまうだろう。親に借りた「借り」は違う形で次世代に返せるようにすればいいし、社会に借りた「借り」は社会に返せばいい。誰もが完全じゃないわけだし、自分のできないことは気兼ねなく人に助けを求め、人のできないことで自分のできることは手伝ってあげよう、という意識をもって行動するだけでコミュニティはより健全なものになるだろう。「もちつもたれつ」世の中は回っているものだという当たり前のことを常に念頭においておきたいものだ。

大人の学び


はじめに書いたように、今、時代は大きく変わろうしている。たとえば、AI技術がどこまで進歩するのかは今判断することはできない。しかし、シンギュラリティという言葉を乱発して無駄に不安をあおる論調から身を離しておくことは必要だろう。不安は売れる、これが出版界の常識だからだ。しかし、おそらく確かに近い将来に今ある仕事の半分くらいはAIに取って代わられるだろう。メガバンクが採用を減らし、早期退職を募っている現状を見ればすぐにわかる話だ。これについては、AIが得意とする領域でAIと勝負しても勝ち目はないのだから、AIが苦手とする領域でAIとの共存を図っていく必要があるという認識が必要だ。AIに仕事を奪われても新たな仕事ができるだろうと楽観主義者は言う。新しい仕事は確かにできるだろうが、それはAIが苦手な領域に位置づけられる仕事になるはずだ。つまり、推論力、共感力、コミュニケーション能力、創造力、想像力といった現在の学校ではまともに教えられていない分野の能力を高めることが必要になる。だからこそ、大人になってからも「学ぶ」ことが必要なのだ。もちろん、知識習得、技術習得を「学び」と言っているのではない。「学び」とは、学ぶ楽しさを再発見し、自分から一度離れ、自分を破壊し、更新することで他人との関係を見直し、変化に対応しうるしなやかさを取り戻すことだ。

犬も歩けば棒にあたる


立ち止まって「学び」を経験し、一呼吸置いたら、自分の道を模索し、思い切って歩き出してほしい。「自分の道」が見つからなくても焦らなくていい。何かを学ぶと、身の回りの人間関係を少しだけ変えてみようとか、新たなことに挑戦してみようとか思えるようになっているだろう。そうした小さなことから始めてみれば、道は見えてくるものだ。 

身の回りのこと、人への対し方を新たにするという行動を起こしつつ(この時点ですでに歩き始めていることになる)、ゆっくりと自分の道が見えてくるのを待てばいい。早く道を見つけたいとか目標を定めたいなどと思う必要はない。ともあれ、歩き始めてみることだ。目的が見えなくてもかまわない。歩いていると目的が生まれてくることもある。決まった目的に向かって歩くよりも楽しいかもしれない。人生いきあたりばったり、もいいだろう、と僕は考えている。「犬も歩けば棒に当たる」というが、棒に当たるのはラッキーかもしれないしアンラッキーかもしれない。しかし、ともあれ一歩ふみだすことでで新たな変化のきっかけに出会うことにはなるだろう。

人生いきあたりばったり、この文章もいきあたりばったり、みたいな感じだなあ。
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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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