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スタンウエイCD75 by TAKAHIRO HOSHINO

干野宜大(ほしのたかひろ)さんのピアノを二日続けて聴いた。一日目は瑞江のフレンドホールで、二日目は石橋メモリアルホールでいくつかは同じ曲を連日で聴くという体験をした。石橋メモリアルホールでの演奏はヴィンテージニューヨークスタンウエイCD75という1,912年製のピアノ。ホロヴィッツが最も愛したピアノとされていて、今もその当時のコンディションを保っているのは世界でこの1台だけだということだ。現代のピアノとは全く異なる音色、パワーで、同じ曲を連日で聴いたおかげでピアノの違いがよくわかった。バイオリンも同様だが、これほど技術が進歩している時代において、より素晴らしいピアノが生まれてこないというのも不思議な感じがするが、素材と技術の問題なのだろう。ちなみに、皮革製品や木材も昔に比べて素材の質が極度に落ちているのは、とても残念なことだ。
 
石橋メモリアルホールでの演奏の感想を少し。前半はスカラッティから始まり、モーツアルトのピアノソナタへ。これは様々な演奏を聴いた結果、グレングールドとファジル・サイの演奏が気に入っていて、しょっちゅう聴いているのだが、干野さんのような解釈は初めてだった。念のためホロヴィッツの演奏も聴きなおしてみたがやはり干野さんのような解釈はしていなかった。この音をピアニシモにするの?ここでスピードを変えるの?これに一瞬空白、間をいれるの?など驚きがいっぱいだった。ある部分をピアニシモで弾くだけで曲全体がいたずらっこのようなかわいらしいなものになり、間をうまくとると音楽に新たな色彩が加わり映像的なものになるのだと感じた。
 
そしていよいよベートーベンピアノソナタ「アパショナータ(熱情)」これはルービンシュタインの演奏を聴きなれている。昔のピアノフォルテを使った演奏も打楽器感があって気に入っている。で、干野さんの演奏、これははじめの音から衝撃的だった。CD75とはこんなにパワフルな音が出るのか!乾いたピアノならではの深い音色。こんなスタンウエイ聴いたことがない。音の塊を脳髄にたたきつけられているよう激しい演奏に、途中から心臓がバクバクして呼吸があやしくなった。穏やかなパートに入ると心臓のバクバクはおさまったのだが、なんだか涙が流れていた。ここのパートに感動しているわけじゃないのだがなあ、と冷静に思いながらもただ涙が流れていた。そして最終パートへと向かうと再び音の嵐。最後の鍵盤をたたいた勢いで上半身がのけぞりそのまま立ち上がるエンディング。演奏が終わったとたん立ち上がって歓喜の叫びをあげそうになったが、タイミングを失って座ったまま拍手をするにとどまった。

休憩をはさんで後半。前半とうって変わってとてもリラックスできる楽しい演奏だった。最後のハンガリー狂詩曲13番は連日で聴いたが、思い切った編曲で、いろいろな楽器や町のざわめき、通りでのおしゃべりなどのイメージが次々に浮かぶとても視覚イメージを喚起する曲になっていた。聴いていてニコニコ笑顔になり、ときに声を出して笑ってしまいそうになるような演奏だった。アンコールは、事前にこっそり聞いていた通り、モーツアルトトルコ行進曲ジャズバージョン。これもグールドとファジル・サイの演奏をしょっちゅう聴いている曲だが、ジャズ編曲は新しい曲としてスイングしていた。別の曲のモチーフも加えとても気持ちが躍動する演奏、とても楽しい余韻を残して終了した。
 CDでは味わえない生演奏の良さを存分に味わった二日間だった。やはり事件は現場で起きているのだなあ。
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「モヤモヤする」について考えてみた

「モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ」(宮崎智之)を著者に送っていただき、様々なエピソードを楽しく読ませていただいた。しかし、「モヤモヤする」という言葉がどうもピンとこなかったので「モヤモヤ」について少しだけ考えてみた。

まずは「モヤモヤ」とはどういう感じなのだろう。僕自身は自分の感情を「モヤモヤ」と表現したことがなかったので調べてみた。
「モヤモヤ」という言葉を使ったことがなかっただけで、「モヤモヤ」で表現される感情を頻繁に経験しているのかもしれないと思ったのだ。
 
「もやもや」とはもやがかかったような状態を指し、「もやもや病(Moyamoya disease)」は、脳底部の異常血管網がたばこの煙のようにもやもやしてみえる病気だ。「モヤモヤする」とは、対象に、もやがかかっていてはっきり見えないもどかしさを感じている、という状態のことのようだ。あるいは何らかのわだかまりがあって心がすっきりしない、という状態も表す。時に、色情がむらむらと起こるさまを表すこともあるが、おそらく「モヤモヤする人」という場合、そういうことを表しているのではないだろう。
 
調べてはみたが、どうも自分は「モヤモヤ」を感じることが少ないようだ。なぜ自分は「モヤモヤ」しないのだろう、と考えてみた。様々なことをはっきり割り切っているから、というわけではない。「賛成反対どっち?」などと言われると、どっちというわけでもない、というようなことはたくさんある。どうも納得がいかないが、周囲に合わせておく方が無難だから不本意ながらもそうしておこう、というようなケースも多々ある。では「モヤモヤ」に近い状態ではないか、と思われるだろうが、本人は「モヤモヤしている」とは感じないのだ。
 
こうして書いていると、だんだんわかってきた。なぜ「モヤモヤしている」と感じないかというと、僕の場合「モヤモヤしている」のがデフォルトだからだ。ずっと霧の中にいる人は、それが普通の状態であって、たまに霧が晴れると感動するが、それがあるべき状態だとは思っていない。また、その状態は自然に表れるものであって、自分の意志によって作る状態だとは思えない。たまに訪れるラッキーな現象であって、だからこそ「霧が晴れた」と言語化するわけで、デフォルト状態をわざわざ言語化して表現する必要はない、と感じているのだと思う。

僕にとって「生活する」「生きる」というのはモヤモヤした状態の中で、これといったはっきりした答えに行き当たらないまま手探りし続けることなのだと思う。霧がかかっているからこそ、周囲の状況に敏感になる。視覚だけに頼れないからこそ感覚全部を研ぎ澄ます必要が生じる。五感全てを使いながらゆっくりとおぼつかない足取りで進んでいく。視界が悪いからと言って進むのをやめてしまえば生きている実感を失ってしまうだろう。そんなわけで僕は「モヤモヤ」を感じないまま、「モヤモヤ」の中で生きていくのだろうなあ。はっきりとした視界を力づくで得ようとするのはどうも危うい気がするし。
 
プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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