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楽しい時に「楽しい」と言わせない社会っておかしいよね。


赤ん坊が笑うと周りの人も少し幸せになる。これは人間の遺伝的な、つまり本能的性質。弱い赤ん坊は周りのアシストなしには生きられないし、赤ん坊が育っていかないと社会も持続的にならない。

誰かが楽しいと自分も楽しくなる、楽しさは共有すれば増大する。誰かが苦しいと自分も苦しくなる、苦しさは共有されることで軽減することもある。一緒に笑ってくれる人、一緒に泣いてくれる人がいると、人は孤立感を避けることができる。社会生活を維持するために重要な共感能力、これも本能的なものであって、共感能力をベースに人は社会生活を維持してきた。

ところが、今、例えば僕が「楽しい」とか「楽しかった」とかSNS上で発言すると、その発言に傷つく人もいるし、その発言に怒る人もいるし、その怒りを正義の名のもとにぶちまけ仲間を募って攻撃を始めようとする人さえいる。これはどうしたものか、と思い、いくつかの例を考えてみようと思う。

たとえば、「結婚しました」「子供ができました」「子供が成長しました」というFacebook上での友人の発言に対して。結婚したいのにできない人、子供が欲しいのに子供ができない人、たちが発言者のことを無神経だと言う。しかし、発言者がそれに気を使って発言しなくなる、というのはどうなのだろう。また、SNS上で自他を比較する人は鬱状態になることが多いということもわかっているし、Facebookを使えば使うほど人生に満足できなくなりやすい、ということもわかっているわけだから、発信者のことを無神経だと言って攻撃する暇があるならば、さっさとFacebookをやめればいいだろう。発言者としては、発信頻度が多すぎると顰蹙を買う、ということはあるだろうけど、うれしいことを発言して「いいね」をもらうともっと幸せな気分になれるのであれば、発信を遠慮することはなかろう、と思う。それを見てうれしさを共有する人だっているのだし。
(参照記事)https://gigazine.net/news/20191004-quitting-facebook-less-depressed/

次に僕がよく炎上させちゃうパターン。社会のムードにそぐわないタイミングで喜びなどを発言する場合。社会への批判、考察などに対する発言に対して、反発、反論、罵詈雑言が来るのはまあそれはそれとして、たとえば台風で被災状況が明らかになる中で、自分が楽しかったことについて書いちゃうときの反応。まあ、自粛を要求するわけだ。人の苦しみや悲しみが想像できないのか」とか、「自分だけよければいいのか」とか攻撃してくる例のやつ。僕は空気読まないからなあ、しょっちゅうこの手の攻撃を食らっているよ。台風のあと、出張から帰って、家族は無事でしたというコメントと家族の写真をアップした芸能人に対して、「行方不明の人もいるのに幸せアピールしんどい」と言った批判の声があがる。そのインスタグラムでは「台風による被害がこれ以上拡大しないよう、一日も早く復興することを願います」と書いているのに。たぶん、批判者たちは台風被害の当事者じゃないんじゃないかな。暇なのか。

まず、「自分は楽しい、と思うのはいいことじゃないか」というのは当然のことだ。(もちろん「自分さえ楽しければそれでいい」とは言っていない)また、楽しい時に「自分は楽しい」と発言することには何の問題もない。ただし、悲しみにくれる人が隣にいる場合は発言を控えるほうがよいだろう。では、はるか遠くに悲しみにくれる人がいる場合はどうだろう。たぶん、「楽しい」と笑顔で発話することに問題はない。要は距離の問題だ。もちろん、ネット上では物理的に遠くにいる人にも言葉は届くだろうが、それにしても距離感の問題といえるだろう。

たとえば、「今日のご飯おいしかった」とFacebookに書き込んだとたんに、「今、飢餓状態にいる人は世界(日本でも)に多くいるのに不謹慎だ」という攻撃は飛んでこないだろう。「金持ち自慢しやがって」という妬みから攻撃をしてくる人はいるが(そういう人はすでに残念な人であって、先に書いたようにきっとSNSをやめる方が幸福感を得られるはずだ。でも、攻撃的な言葉でストレスを発散することで、さらにストレスをため、さらに負の言葉の発散によって解消しようとしていくうちにストレスがさらに高まり、ますます不幸になっていくということになるのだろう)、彼らは、視野を広げれば「吉野家の牛丼うまかったぞ」でも、理屈上、同様の攻撃対象になるはずだとは思い至らない。「俺たち庶民」の外部に「食事も満足に取れない人」が日本にもたくさんいるということが見えていないわけだ。きっと「俺たち」が世界の標準なのだな。想像力の問題かな。

台風の話に戻してみよう。「不謹慎だ」とか言う人は大体において被災当事者ではない。被災者の代弁者のつもりではいるのかもしれないし、被害に心を痛めているのかもしれないが。じゃあ、世界中で常に起こっている悲惨な災害についてはどうなのだろう。そこに当事者性を感じ取り、共感しないものは不謹慎だというならば、いつであっても「楽しい」という発言ができなくなることになる。
まあ、簡単に言うとどこまで当事者性を感じているか、どこからは見ないことにしているか、ということに尽きるわけだ。

自分にとって都合のいい当事者性と正義感で誰かを攻撃するのはいかんと思うな。
 



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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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