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imagine! 想像力をもって現実と向き合え

前回の続き、医療と教育と市場原理の話は先にのばします。

先月、地震の前日、20年前の生徒3人と食事しました。新潟校で教えていた時の生徒です。そのうち、二人は紆余曲折を経て去年結婚したカップルで、奥さんになった方とは20年前ぶりの再会でした。男性二人と私とでは何度か食事したこともあり、彼らの人生の転機に話をすることも多かったのですが、今回は自分が年をとったのか、彼らがかわいくて、また、彼らのこの先のことがとても心配になり、なんだか保護者のような気持ちになりました。自分が大學卒業後、就職もしないで、芝居の世界に飛び込んでしまったとき、両親は心配だったのだろうなと、いまさらながら実感しました。と言っても10年ほど前に父親が死んだあと、母親は徐々に元気を取り戻しながら様々なことに挑戦し始め、いまや70歳を過ぎて演劇(素人集団ですが)を始め、舞台は楽しいとかのたまっておりますが・・・

昔の私は「寄らば切る」みたいな殺気を放っていたらしいです。それじゃ授業にならないだろう、と今は思いますが。
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私もずいぶん変わりました。・・・穏やかになりましたねえ・・・

15年ほど前の仙台の生徒は今、被災地をを自転車で走り回り復興への力となりながら、今や、私の妻の仕事にアドバイスもしてくれています。昔の生徒でまだ直接的につながりを持っている人たちもまだまだたくさんいますが、ともあれ彼らと自分が今のような関係性になるとは教えている最中には夢にも思いませんでした。未来への想像力が欠けていましたね。相手が大學を卒業したころに会うと目線が変わるからか、ようやく相手の素晴らしさに気づきます。教壇の上からではなかなか相手は見えないものなのですね。上から見下ろすという物理的環境が相手が見えるということを妨げているのでしょう。下から見ていると相手を見透かせるものかと思うと、教壇に立つことの恐ろしさを感じます。上から見ていると相手は見えてこない、政治家や大企業のエライ人たちには見えていないことが多いのでしょう。

視点を変えるだけでものは違って見えます。他者の視点を獲得することは不可能であるにせよ、自分の視点を動かしてみることは必要でしょう。カイの前に飼っていたシベリアンハスキー(エベルといいました)は大きな犬で、散歩している最中に会う子どもが怖がるとお母さんが「こわくないのよ」と言いました。「いや、子どもの目の高さからみるとかなり怖いと思いますよ」と私は言ったことがあります。子どもの目線から見たシベリアンハスキーは大人の目線に換算すると象の子どもくらいになるかもしれません。象くらいの大きさのシベリアンハスキー、これは怖いですよね。

ピカソの「盲人の食卓」という絵を見て、その指に非常に感銘を受けて、そこからなぜそういう展開になったか覚えていないのですが、数日間目を閉じて生活してみたことがあります。一人暮らしの学生だったので環境的に可能だったのですね。学生の人、そんなバカなことできるチャンスは学生時代しかありませんよ。是非経験してみましょう。

初めは、部屋の中を移動するのも大変でそとに行こうものなら杖代わりのスキーのストックもまったく役に立ちません。食事はパンなら食べやすいのですが、時にそんな私を面白がって見に来る友人がカレーや焼きそばなど差し入れてくれたりもしました。目をつぶっていると、スプーンでカレーを食べるという単純な行為も難しく感じます。彼らには「しばらく目を開けない宣言」をしていたので、いろいろな人がからかいにきました。・・・彼らにしたら面白かっただろうなあ・・・

ところが、3日くらいすると意外に部屋の中、下宿の近所の移動はかなりスムーズにできるようになりました。目を開けていることで鈍っていた感覚が少し鋭敏になったのでしょう。目の見えない人の気持ちが少しはわかるなどと傲慢なことは到底いえませんが、少しだけでも今までと違うものは感じられた気がしました。まだ点字を指で読むことはできませんし、病気で指の感覚を失った人が舌で血を流しながらも点字を読んでいたという話を聞くと私の想像力の及ぶところではなくなります。

足を骨折したときに初めて気づいたのは階段は下りのほうがこわいということ。駅にエスカレーターがつき始めたころは今と違って上りが圧倒的に多かったので、下りのほうが必要な場合もあるのに、と感じました。

というわけで他者の視点を獲得するのは不可能であるにせよ、視点を動かすことで多少、自分以外のものに共感できるようになることは可能だと思います。理解不能性(人のことが理解できる、なんてセリフには脅迫的なものを感じます。「お前の気持ちはわかる」とかあまり話したこともない人に言われたくありませんね)を前提にしながらも、共感度合いを高めていく努力は大切なことだと思います。

東大の今年の入試問題で「他人の痛みは理解できるか」を自由英作文で書かせる問題がありました。今となってはタイムリーな出題です。そりゃあ、理解できないでしょう。しかし、ある程度の共感は可能です。ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの「アンダルシアの犬」という16分ほどのシュールな映画があるのですが、その冒頭シーンでは女性が剃刀で眼球を真っ二つにされます。この言葉だけでうわっと思いますよね。それが共感の原初的状態です。大体誰にもある感情でしょう。

共感はおそらく身体的なもので、合理性に基づく思考方法が強くなった現代という時代にはきわめて必要なものでしょう。身体性の復権は今の時代に必要なことだと思います。身体性を失った概念の一人歩きはいずれ行き詰まり、暴発します。そういう点でツイッターは情報伝達だけではなく、共感をつなげて、力に変えうる可能性のあるメディアだと思います。同じ価値観の人が群れて共感しあう様は外からは見てられない気持ち悪さですが、本人たちには必要なことなのでしょう。とくに震災後の企業家の方々のやり取りにはうんざりしましたが、見る義務もないのにそれを見る私が悪いので言っても仕方ありませんね。


さて、今度の震災では共感が日本中に広がっています。被災者への労りやある種の正義感や義務感から義捐金も多額となり、また、炊き出しのお弁当を5000食も被災者の目の前で廃棄処分したり、援助物資をまともに届けられなかったりする役所的な硬直したシステムへの怒り、東電や政府、さらにはメディアへの怒り、そういった共感が日本に渦巻いています。しかし、その共感が想像力を伴わないまま、共感の強要として暴走すると理性を欠いた言動を生みかねません。「自粛」という名目で他者を監視する視線、「原発反対」「政府や東電はうそつき」などをメッセージソングにすると、その音楽性についての判断はさておき「勇気ある発言」としてほめたたえる人々、そういった共感が正義の名のもとに半ば強要されていきます。・・・まずは音楽として聴こうよ・・・またそれを封じ込めようとする権力が存在するとますます「正義」は助長されます。そこに、noとは言いにくい雰囲気を作り出してしまうのは危険なことだと私は思います。・・・あたしゃ、「セーギ」と大声でいう輩は信じないね・・・

苦しんでいる人を見たら助けたいと思うのは、とても基本的な共感の形です。すばらしい共感です。

しかし、いざ助けようとする場合には知性と想像力が必要になります。ずっと水を飲んでいない人が水を飲ませてくれ、と言ったらどうしますか?

コップ1杯の水を差し出すと、乾いた者はそれを一気に飲んでしまい重大な事態に陥る可能性もあります。タオルに水を含ませ少しずつ水分を与えるほうが賢明でしょう。

あるいは、藤原新也さんが「インドで飢えた子どもに、これで何か買いなさいとコインを差し出すと、そのコインをそのまま喉に入れて死んでしまう子供がいる」と書いていたのを読んだことがあります。善意で与えたコインが与える側の想像力を欠いていたために殺人行為と同様のことになってしまいかねないということです。「善意だったのだ」は言い訳になりません。

想像力はとても大切です。先日ツイッターでこうつぶやきました。

世界各地から救援物資が届いて日本人は感動した。We are not alone.(alone=他と切り離されて)それを聞いて、素直でない英語教師はつぶやいた。Are they alone? (theyはたとえばサハラ以南の子供たち。エイズ孤児1900万人。)

weはtheyの対立概念です。おそらく今日本人が救援の必要を感じている対象は震災の被害者です。その日本では自殺者が10年連続で年間3万人を超えています。震災以前に目の前にあったはずの悲劇。彼らが立ちあがれない社会構造があったのでしょう。 「立ち上がれ、日本」というのは震災前にはなかったフレーズです。

そしてサハラ以南ではエイズの孤児が1900万人、世界中で死んでいく子どもの数は1日に3万人以上で一番の死亡原因は下痢性の脱水症状で1パック10円くらいの経口補水塩でその日は命をつなぐことができます。ユニセフではかなりの広告費をかけてこの実情を訴えてきました。しかし、日本では、今回の地震のような大きな共感はおこりませんでした。(過去形にはしてはいけませんね) おそらく共感力の働く対象、想像力の届く範囲と当事者性といったことなのだと思います。

もちろん、自分が強盗に襲われ刃物を突き付けられているときに、「今、世界のこどもたちは」とか考えている余裕はありません。…マザーテレサは?・・  今回の地震はそういう事態なのでしょう。今、目の前のことが優先されるのは当然です。自分の国なのですから最も当事者性を持つのも当然です。「国家」主義ではなく自らの「国民」を愛する気持ちは大切だと思います。それはいわゆる合理性、理屈で割り切れる問題ではありません。今、リビアで戦争が行われ死者が何人出ようが、目の前で自分の子供が死にかかっていればそちらのほうが大問題です。外国に逃げたほうが安全と言われても、たとえ死ぬとしてもこの国にいたい、という心情を持つ人がいてもそれは合理的ではなくても非難・軽蔑の対象にはなりません。

しかし、外国が自分の国を援助してくれようとしているときに、ただwe are not aloneと言って感動していていいのか、と思います。自分たちは彼らをaloneにしてきたのではないのか?もちろんアフリカの問題は簡単な問題ではありませんし、医療費を募金すれば解決する問題でもありませんが、今、義捐金を惜しまぬ人たちが、今死にゆく子どもたちを見殺しにしてきたというのは間違いではないでしょう。国連が昔計算したところではすべての人が基礎的ヘルスケアにアクセスするのにかかる費用は軍事費の数パーセントだそうです。ただし、この数値を過剰に喧伝するのはヒステリックな旧左翼的アジテーションにすぎず、アフリカの教育水準をあげること、つまりまずは識字率をあげることにより、よりうまく機能する政治システムをつくること、と同時にエネルギーシステムの構築が伴わなければお金だけでアフリカの現状を救えるというものではありませんが・・・

想像力を鍛えること。つまり目には見えないもの(遠くに感じる外国、遠くに感じる過去や未来、自分の行動の結果としての未来、表に現れない経済システム(今食べている海老やバナナはどこからどうやって来たか、その生産過程は?) 目に見えない人の感情)をどこまで感知するかの能力を高めること。星の王子様に出てくるキツネも言っています。「大切なものは目にはみえないんだよ。心で見なくっちゃね。」しかしそこには知性も必要です。当たり前のことですね。

ベンジャミンフランクリンはtime is moneyと言い、目に見えない時間をお金に換算しようとしました。一元化して可視化することで想像力を封印し、合理性を追求したのだとしたら極めてアメリカ的ではあります。

アイルランドではtime is time
時間は時間であり、神様がくれた時間をお金には換算できないとしてアメリカ的思考を拒絶するものが多いと聞きます。目に見えないものを目に見えないものとして感知する能力も想像力の一部です。

we are not aloneと言うならば、想像力を広げ、地球規模のweに共感を持てるようになること。せめて、そうであったほうがいいなあ、と気づくこと。身近な他人の幸せが自分の幸せにつながると気づき、さらには「身近」の範囲を広げていくこと・・・ただの妄想的理想主義者になってきた・・・ただ、「身近」の範囲を広げることは、今、自分が理念としてではなく現実的行動として実践している最中です。


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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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