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日本の伝統文化と教育についての覚え書き

1か月以上更新できませんでした。何やらとても忙しい日々です。「忙しい」という漢字は「心」と「亡くなる」からできています。言葉は言霊、「忙しい」と頻繁に口にするのはあまりよくなさそうですね。「ものごとはゆっくり行うほどその時間が充実する」とネイティブアメリカンなどは言います。彼らのような文化を持つ人たちからすると私たちが慌ただしく走り回っている様は滑稽にみえることでしょう。私たちがその中に生きている資本主義というものは忙しさを増していく要素を、本質として抱えているもので以上、ある程度はやむを得ないことですが・・・

今、これを書いている部屋の窓から6メートルくらい離れた木でアカゲラ(きつつき)がドラミング(木をくちばしでつついて穴をあけるとき行為)をしています。響き渡る音は何とも忙しく、調べた人によると1秒に10回以上木をつついているようです。自然界で生きるには速度が必要なのでしょう。のんびりカッツンカッツン木をつついていては巣をつくることもできませんからねえ。

そういうわけで、私たちが生きていくためには速度が必要なのですが、忙しく走り回っていると見失いがちなものを、時に取り戻そうとする営みもまた、心が生きていくには必要なのでしょう。

今回は現代の慌ただしい日常の中で見失いそうなもの、日本の伝統的文化についての覚え書。

先月は、山種美術館で少人数貸切で浮世絵を見る催しに招待されました。今は千葉市で催されている「ボストン美術館浮世絵名品展」です。ボストン美術館は1870年に設立された美術館ですが日本美術のコレクションは、日本国外では質量ともに世界屈指のコレクションを誇ります19世紀末から20世紀初期に来日したエドワード・シルヴェスター・モース(東大動物学教授)、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(同じく東大)、ウィリアム・スタージス・ビゲロー(仏教徒となり寺の建築物や美術品の修復のための寄付や、若い日本の芸術家たちの支援を行いました)の3人のボストニアンが主に収集したものです。

この展覧会では三大絵師清長、歌麿、写楽の名品を中心に展示していますが、保存状態が極めてよく、今まで見た浮世絵はなんだったのかと思うくらい見事な色彩でした。和服の織までが見事に写し出され、近くで下から見て初めてその繊細さが見て取れるという作品までありました。これらはボストン美術館の文化財保護のための厳格な規定により、今後5年以上展示の機会がないということで、ものによってはもう何十年かは展示されることなく、またものによってはボストン美術館から出されることはもうないということです。もし、これらが日本にあったら戦争の影響でもう残存していないでしょうし、残存していてもこのような保存状態ではありえなかったでしょう。外に出し光にあてるだけで剥離したり色あせたりする繊細なものだけに、100年以上もの年月、このような状態を保存するというのは並大抵のことではありません。このような文化的遺産の保存は、かくも慎重にかつ閉鎖的に行う必要があるのだと感銘しました。

決して民主化、規制緩和してはいけない領域です。

話が変わります。

5月7日に地元軽井沢の大賀ホールで佐藤健作さんの「若水」という演奏会がありました。佐藤健作さんは「和太鼓に選ばれた男」と称される和太鼓奏者です。代ゼミの同僚の夫ということで、新宿で飲んでいる最中に来てもらって話したこともあります。実に邪気のない素直な人です。

その太鼓の音は、ユーチューブで見てもCDを聴いても、体験できるものではません。その場にいて、その空気の振動を体感することによってしか受け取ることのできないものです。2008年に初めて聴いたときは、和太鼓があれほどまでに多様な表現ができるのだということにまず感動しました。「たまゆら」という曲では繊細なキラキラした音がささやきのように不安定に美しくゆらめいていました。今回の軽井沢公演の「たまゆら」は力感が出ていて異なる趣ではあったのですが、初めて聴いたときの印象が強すぎたせいか、その安定感に違和感を覚えました。そして何といっても圧巻は「不二」という4尺3寸の大太鼓です。これは個人所有のものとしては2011年現在、世界最大のもので、この太鼓と向き合うとき佐藤健作さんは完全に太鼓と一体化します。太鼓が彼にたたかせているのだといってもよいくらいです。この太鼓をたたくその姿は見事なまでに美しい。舞踊、あるいは武道において肉体の質感が生み出す美しさと通じるものがあります。そして一瞬静止するときには、歌舞伎の「見得を切る」瞬間(歌舞伎役者の感情、動作の高揚が頂点に達したとき、一瞬動きを止めて決まった姿勢をとること)と似たような華やかさがあります。下の写真は大西暢夫さん撮影のもの。美しいですねえ。

佐藤健作

今回は能楽師、津村禮次郎氏との共演でした。2009年にも津村さんとの共演を見たのですが、今回のほうが息が合っていて、破の舞いでは、津村さんも70歳を過ぎているとは思えぬ跳躍力で飛び上がり和太鼓の乱れ打ちとみごとに拮抗していて素晴らしい舞台でした。ネ、飛んでるでしょ、下の写真!

本番-220


さて、このような文化はいかにして維持されていくのでしょうか?こちらは浮世絵作品の維持とは違って外部から遮断して現状をできるだけ保持することによって守られていくものではありません。能や狂言と同様に次世代の演奏者に引き継がれていくことによって守られていくものです。もちろん、時代とともに少しずつ形を変えていくものではありますが、日本古来の伝統文化を引き継いでいくことは大切なことだと思います。

そこで必要なのはまずは教育でしょう。いつもようにこれもまた当たり前のことですが・・・

和太鼓の場合だとまず、体感させる機会を与えることです。実際のところ、五感で感じ取るという体験は、今の時代には難しくなっているのかもしれません。様々なものについて説明過剰な「情報社会」の中で、何の予備知識もなくただ体を委ねることは今の日本の学校教育の在り方と相反するものだからです。しかし圧倒的なものに出会うと人は理屈を忘れただそのものに集中します。できるかぎりその機会を与えられる環境をつくることが大切です。

佐藤健作さんはFUJIプロジェクトとして、「和太鼓によって子供たちの秘めた力を目覚めさせよう、子供たちに力強いニッポンの心を植えじっくり育てよう」という趣旨で子どもたちに和太鼓体験をさせる活動をしています。素晴らしいことです。次世代の演奏者を育てるだけでなく、そこで感じたニッポンを子どもたちが心の中に持ち続けることは、日本の文化を継承していく上で大切なことでしょう。

和太鼓から話を一般化します。文化を守ることを可能にする教育を行うには、子どもにとって圧倒的なものと出会うことが有効だということになります。おそらく価値の平準化が進んでいなかった時代には、教師や親は格段に優れた人間でなくても、子どもにとって、模範の対象となりえたので、文化の継承は教育の中で自然になされていくという側面もあっただろうと思います。しかし今の時代には子どもは親や教師をほかの大人と並べて相対化してしまいがちです。そうなると、子どもが確固たるものを内面に持つことは難しくなります。別に浮世絵が世の中からなくなってもマンガがあるからいいじゃん、というわけです。
(マンガを低く見ているわけではありません、マンガも今や世界に誇れる日本の文化と言えるでしょう)

つまり、子どもにとって、模範、あるいは模倣したくなる対象としての大人が身近にいないことはかなり問題だと私は思うわけです。周囲にいなければ伝記を読む、ということなのか、私の子供時代は、学校でずいぶん伝記を読まされた記憶があります。しかしドラマであれ伝記であれ、日常レベルで体感するものであり得ない限り、一過性の表面的体験となってしまう可能性が大きいでしょう。そうするとやはり、親、教師、あるいは子どもを取り巻く共同体(コミュニティー)がある程度確固としたものであることが必要になるのでしょう。

私は、共同体としての子育てが今の時代の選択肢としてはもっとも有効なのではないかと考えています。グローバリズムが加速する時代の中で、つまりボーダー(境界線)次々と無化されていく時代の中で、地域社会の役割を見直していかなければいけない、というのが教育分野に限らず最近私が考えていることです。

とりあえず、今日はここまでにします。

以下はこのブログを書きながら、思考が向かったこと。
いつか、もう少し思考がまとまったら書くかもしれません。

共同体の子育てはシングルマザー増加や、子どもの価値観形成の点で現実的有効性をもつだろうし、たとえばフランスの週末ペアレント(週末だけ別の家庭の子どもとなる、子どもを持たない夫婦や老人夫婦など受け入れる側にもメリットは大きい、ただし里親の問題同様に親の選別は必要になる)なども取り入れてみてもいいかもしれません。といった具体的な方法。

ボーダーを次々と無化するグローバリズムの時代に、民主化・規制緩和が進み、ポストモダン的な価値観の相対化が世の中を覆うと人は拠り所を失います。私が驚いたのは「モーツアルトやバッハよりもAKB48のほうが音楽的に優れている」と言い放った学生がいて(その時初めてAKB48なる存在を知ったのですが、今もなんだかよくわかりません)、私は同意できないと言うと、複数の学生がAKB48のほうが上だと抗議してきました。それは優劣ではなく好みの問題ではないのか、というと、「自分が好きなもののほうがそうでないものより優れている」、と言われて考え込んでしまったことがあります。確かに優劣の基準は何なのか、優劣をつける理由はあるのか、という問いにぶつかると自信をもって答えることは難しくなります。しかし、単に個性の問題に帰してしまうことはできないのではないか、と私は考えています。(その個性自体も希薄になっているように感じることがあります。たとえば、バイオリンだとハイフェッツなどは音をいくつか聴くだけで彼だとわかる音だったのですが、そういうバイオリニストは今は見当たらないように思います。)

私の子供時代には「ライオンとトラはどちらが強いか」ということがよく子ども同士の間で語られましたが、今、思うとそれは比較する問題ではないだろうとわかります。その問いは「モーツアルトとAKB48はどちらが上か」という問いと同じなのだろうか。
もちろん比較する理由も必然もないのだけれども、それらを対等なものとして相対化しきっていいものなのか。

まあ民主主義のもとで本当に万人の意見を同等の価値をもつものとして扱うことが正しいのかという問題にもリンクしてくる問題なのかもしれません。

などということを考えています。もう少し考えが整理されればきちんとした形で書けると思います。
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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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