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whatかhowか

「勉強の仕方を教えてください」「どうやって復習したらよいですか」から「単語の覚え方を教えてください」などという質問を聞くことが多くなってきました。驚くことには「がんばり方教えてください。」「やる気の出し方教えてください」とまで最近は真顔で求められます。また、世間では「東大に合格する方法」「お金持ちになる方法」といったような本やアフィリエイトがたくさん出回っています。いわゆる「ハウツーもの」ですね。

こういうhowという問いは,何を目指すかという具体的な目標に対して設定されます。ところが、実際には、その目標に対してなぜそうしたいのか、というつきつめた思考がなされていないことが多いようです。「わが子を東大に入れたい」親はなぜ子供を東大に行かせたいかを外国人に納得してもらえるくらいに説明しようとしてみるとよいでしょう。外国の大学でなく東大、日本のほかの大学ではなく東大、大学以外の進路でなく東大、をきちんと説明しようとして真剣に考えれば「べつに東大でなくてもいいかも」と思えるかもしれません。そもそも幼いころから無理やり調教してやっと東大に合格しても、それがゴールとなり、もう「それで終了」「東大卒というレッテルしか自分にはない」という人間になりはてる可能性も十分にあります。そうすると東大合格以上にそのために払った代償は大きいことになるでしょう。「お金持ちになりたい」人は「お金持ちになりたい理由」を徹底的につきつめて考えてみれば、意外に「べつにお金持ちにならなくていいや」という結論にたどりつくやもしれません。調査によると収入と幸福度はある一定程度の収入を超えると相関しなくなるものらしいです。お金持ちになるために代償となるものの大きさも考えるほうがよいでしょう。

おそらくhow to ものに手を出す人は、「努力せずになれるなら」お金持ちになりたいと思って試してみる、という人が大半ではないかと思います。このようなhowは「どうするか」というよりも「具体的に何をすれば目標が達成できるか」というwhatの問いに言い換えることができます。つまり「何を目指すか」という大きな目標たるwhatに対して「そのために具体的に何をするか」というと小さなwhatの問題といえるでしょう。そしておそらくは大きなwhatを突き詰めて考えずに小さなwhatを安易に求めるという傾向が強いように感じます…そもそも大きなwhatなど持たずに、自分の当選と派閥の利益という小さなwhatのみを場当たり的に果たそうとし続ける政治家と称する人たちよりは害はないといえますが…一番有害なhow toですね。

そしてそういう人は小さなwhatを明確に示されてもなかなか実行できないようです。たとえば、「この問題集を今週中にやる」というきわめて具体的なwhatに対しても実行できず、何かと言い訳をさがすことも多いようです。おそらくそういう人に徹底的にかけているのはことにどう向き合うかというhow,つまり「ことに対する姿勢」なのだと思います。 簡単に言ってしまえば、実現可能なレベルの小さなwhatに対しては、相撲の行司のごとく脇差を腰にさし、できなければ切腹、という覚悟を決めればいいだけのことです。本気でそう思うには実際に脇差を腰に差してみることは欠かせません。頭の中だけで誓うだけではその切迫感は生まれにくいものです。そういう身体性が大切なのです。

ところが、「何を目標にするか」という大きなwhatを考え始めると、なかなか結論に達せずどうどうめぐりを始めてしまいます。「人生で何をするべきか」は永遠の問いともいえるかもしれません。それを細分化して「20台で何をするべきか」「30台で何をするべきか」「50歳までに何をするべきか」などというばかばかしい本まで売られていますが、そうまでして人の不安に付け込もうなどとは浅ましい限りで、そういう本を出す人の生き方など学びたくないと思えない人が多いのは不思議なところです。それだけ不安で、横目で隣を覗いて自分の道を軌道修正したいのでしょう。

私自身、そろそろ人生50年が射程に入る年齢となり、自分は「何を」すべきか、「何を」成し得るのかと考えると思考停止に陥ります。何も成し得ないであろう自分が明確に見えてくるからです。しかし、それは仕方のないことなのです。そもそもそれは判断停止が運命付けられた問いなのです。「何か」を達成すればそれは過去のものとなり新たな「何か」が生じるわけですから、結局は果たせぬものを見ながら途中で終了するのが生というものです。「何も果たせぬ」と感じながら生を終えることははじめからわかっていることなのです。今の私にとってそれ以上に重要なことは「いかに現実に向き合うか」というhowなのです。

whatという問いは目的指向的なものです。目標、目的を定めることは大切だ、とよく言われるのですが、目的などしっかり決めたら不自由でかなわないと思ってしまいます。私はhowを先行させた上で暫定的なwhatと向き合っていく、この向き合い方も先行させたhowに準じていく、というあり方を基本としています。つまり、「どう現実とあるいは他人と向き合いたいか」を自分に問いながら、その都度生じるwhatに呼応する。そのwhatに対しても「どう向き合うか」を一貫しながらことにあたっていく、ということです。このことならば一生果たし続けることは可能です。

もちろん、理念を掲げることでwhatから逃避するわけにはいきません。あるいは過程が大切だからといってwhatを棄却するわけでもありません。ただ、目的志向性が強すぎる現代社会にあぶないものを感じています。「大学合格」にいたるまでに勉強に対する向き合い方、「経済的勝ち組」になるまでの経済生活に対する向き合い方は軽視され結果だけが重視されています。これについては、たとえばフランスのアルトナン・アルトーがこういう趣旨のことをどこかで述べていました。「歩行と舞踊が、異なっているのは、歩行は目的地に到着することで行為そのものは意味を失うが、舞踊はある場所へ移動するその過程にこそ意味がある。」うろ覚えなので大分ちがうかもしれません。関係ありませんが、彼の言葉では、次のような激しい言葉が印象的です。「人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。まるで舞踏会の熱狂のようなもので、この裏とは人間の真の表となるだろう。」これは「神の裁きを決別するため」宇野邦一訳です。実に劇的です。
さて、目的志向性が強すぎる現代への批判でした。目的の正当性への十分な検討もなさぬまま、目的達成のためならば手段は問わない、目的を達成したものを勝ち組として評価するという風潮ですね。この風潮は、個体の目的達成が全体の利益を損ない、それが個の不利益にも跳ね返ってくるという観点からも批判可能です。生物学・生命科学と経済学は今や呼応して論じることができるのでしょう。このことについてはまたいずれ述べることとします。
話を戻します。私は「社会や個人や今の問題にどう向き合うか」という姿勢を決め、それを貫こうとすると、whatは自分で考えるまでもなく、その都度、環境が決定するものであり、それに応じて全力で向き合うことが、自分の生であると考えています。最終的に何ができるか、とか、どこまでたどり着けるか、などという大きなwhatも大した問題ではないのです。

こないだ「これからスタート」という私の単科講座で生徒に伝えたことでしめくくります。どうせ、自分はだめなのだ、という様子の生徒が多かったこともあって、私としてはかなり長く語りました。

君たちはそれぞれ立っている場所が違う。それは当たり前のことだ。皆が平等で同じようにやればできるなどというのはきれいごとにすぎない。人は生まれたときからそもそも不平等なのだ。遺伝子も違えば、環境も違う。それは自分で選び取ることなどできないが、自分を決定付ける大きな要因のひとつなのだ。たとえ同じように教育され同じくらいの努力をしたとしても誰もが、モーツアルトに、ピカソに、あるいはイチローになれるわけではない。イチローよりも努力している人もいるかもしれないが、それでも彼並みになれるわけではないのだ。ましてや、もはや17歳や18歳ともなった今、皆が同じスタートラインに立っているわけではないのは当然のことだ。たとえば、これまでの読書量の少ない人は人の二倍努力しても人と同じくらいの進歩しかしないというのは十分ありうることだ。残酷なようだが、それが事実というものなのだ。ただし、受験という分野は特殊な分野ではある。それは対象とする範囲が決まっていて、その範囲の中である程度の割合のことをクリアーすれば合格するということだ。いわば運に左右されることはない。ラッキーに合格、はあっても、アンラッキーに不合格はほぼありえないのだ。ある範囲内のことが常に8割解答できるところまで到達していれば合格できるからだ。社会だとどれほど努力しても上司と相性が悪いというだけで、あるいはどれほど実力があっても上司に判断力がないというだけで、あるいはどれほどすばらしい芸術を創ってもその時代に評価できる人がいないというだけで、すべては無に帰することが多いのだが、受験ではそういうことはおきない。その点では努力が報われる分野だといっていいだろう。それはむしろ例外的な分野なのだ。

先に皆立っている場所は違うし、進む速度も同じではないと言ったが、皆が、誰にでもできることがある。それは、今、自分のいる場所から一歩踏み出すことだ。当たり前のことだが…
今、自分が倒れているとしよう。その自分に問いかけてみる。「君は立てるのか」そうすると君は答える。
「立てるよ、しかし、立って何になるのか。どうせまた倒れるだけなのに…」「しかし立てるだけの力があるなら立ってみてもいいんじゃないか」そうすると君は不承不承立ち上がる。
「立ってみたよ。で、どうするのさ」「まず、右足を前に踏み出す」「そうしてどうなる?たかが60センチか70センチ進んでみたところでどこへも行き着きやしないし、どうせまた倒されるだけだ」「しかし右足を踏み出す力があるならば踏み出してみようよ」
君は右足を踏み出すが、またそこで立ち止まる。「さあ、その次は左足だ」「それで何になるというのだ」と君は食って掛かろうとするが、しかしなぜか左足を踏み出している。
「そう、右、左、右、左、人は一歩ずつしか進めない。誰だって一度に二歩進めたりはしないのだ。どこへ行き着くともしれず、どこへも行き着かないかもしれないが、一歩ふみだす力があるかぎり、その一歩の可能性に賭けるのだ。どこまで行けるかはやってみないとわからないものだ。やる前から結果がわかっているような時代の風潮にまきこまれるな。データは利用するものだろうが自分をデータ化することはない。「平均値」とはあきらめた者を統計化した結果にすぎない。あきらめない者は、どうせ自分は、と以前自身で思っていたところよりは遠くへ行けることだろう。そして一歩踏み出すその過程こそが価値を生み出すのだ。さあ、今、一歩踏み出そう。どこまでいけるかはわからないが、そして小さな一歩にはすぎないが、それでも、一歩踏み出すごとに、変わっていく自分の可能性を確かめつつ…」

初めて自分が話した内容を文字にしてみましたが、恥ずかしいものですね。そしてなんと当たり前のことしか言っていないことでしょう。

追加 ツイッター上での質問と解答

質問「whatは自分で考えるものではなくその都度環境が決定する」というが環境とは何か

解答「他者・社会・時代など呼応する対象となる外部。精神的渇望を抱えている時に古本屋に行くと背表紙が光り、その初めて見る本こそがその時求めているものであるとわかる経験なども環境に呼応すると言える、そこに自分の主体性は関与しない。ますます曖昧だなあ。」


意見「結局は果たせぬものを見ながら途中で終了するのが生」には納得だが「何をなし得るのかと考えると思考停止に陥る」は解せない。大きなwhatに向けて小さなwhatを重ねて人生という作品が出来上がればいいと思う。

返答「 それは生のダイナミズムを窒息させ、目的に向かうという不自由さは閉塞に思えてしまいます。」

「人生の意味など問うこと自体が生きていることを対象化しようとしている時点で生きているというダイナミズムを停止させようとする生からの逃避である。」


質問「生きているダイナミズムって理解できない。」

解答「消滅生成し続けること。例えば骨や血液もすべて違うものになっていくこと。あるいは変異が一定の方向を目指すのではなくランダムに生じること。万物は流転するということ。」

多くのwhatを指摘してくれた人たちへの返答

例えば原発停止も大きなwhatにはなり得ない。どう生存のためどう共生するかを考えると生じる結果の一つだからだ。自分が作ってしまったものが自分に不利益だから撤回しようとしているだけでそれは本来のWHATたりうるものではない。今回のブログへの共通する質問に対する返答です。
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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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