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ゲンロンカフェ5周年イベント

ゲンロンカフェ5周年イベントに行ってきました。ゲンロンカフェというのは、哲学者東浩紀主催の主にトークイベントを行うスペースです。ゲンロンでのトークは、予定調和的に行われるものは稀で、通常はテーマについてトークしながら思わぬ方向に話が進み、観客、ネット視聴者は登壇者の思わぬ発言に刺激されそこに参加しているという臨場感、一回性を味わえます。今回は5周年と言うこともあって、これからのゲンロン背負っていく4人を四天王と名指して、東浩紀含めて5人でトークするという豪華なイベントでした。
「批評とは何か」「これからゲンロンはどう進んでいくか」というのが基本的なテーマとして掲げられ、トークは19時から休憩をはさみ、非常に盛り上がって深夜1時まで続きました。もちろん終電は終わっています。私はそのあと4時半までゲンロンカフェで観客や登壇者と話しながらワインを飲みました。
 様々な話題が飛び出し、それぞれに考えるところはあったのですが、ここでは自分にとって特に興味深かった部分、思考のきっかけになった部分にしぼって書きます。

 まず批評とは何か。東浩紀はツイッターで「カタカナを並べて、直観的には10秒でわかるようなことを小難しい文章で書き、自分の賢さをアピールするのが批評ではない。批評というのは、それを読む前と後では作品鑑賞やコミュニケーションの仕方が変わり、世界が変わるものじゃなければいけないのだ。」とつぶやいている。つまり、机上の空論におわるものであってはいけないし、仲間内で言語を共有すればよいというものでもない、あくまでも言葉が現実と接する実践でなければならない、ということだ。そのことによって現実の中に新たな価値を生み出すのだ。であれば、当然、社会的現実、社会通念、あるいは政治とぶつかりあうことになる。つまりは批評とは読者に社会に刃を突きつけ世界を切り開こうとする行為だと言っても過言では無いだろう。刃を突きつける以上、相手も命がけで攻撃してくる覚悟が必要だ。
 東浩紀は、おそらくはその覚悟ができていなかったのであろう若い登壇者(批評再生塾というゲンロン主催の評論家育成コースの第一期総代)に、覚悟のほどをせまっていた。(この登壇者は、最近のイベントで真っ向批判してきた相手に対して戦うことを放棄して逃げてしまった、ということだった。私はその場にいなかったので判断できないが…)
 トークでは東浩紀はボクシングに例えてこう言う。「批評は格闘技であり、相手に痛いと思わせることが必要だ。自分が先に痛いと言ってしまったら負けだ」さらに、実践とスパーリング(白ワインを飲みながらついついスパークリングと言ってしまっていたのは面白かった)はちがう。ヘッドギアをつけて想定されたルールの中でスパーリングを行うのと、本気で殴り合うのとは違う、さらにはボクシングの例を逸脱して、ルール無きケンカみたいなものだ、とも。それは一人で引き受けて戦うケンカであり、誰かに代わってもらうことも、誰かに頼ることもできない。戦い方は様々にあるはずだ、と。
 その登壇者は音楽(ヒップホップ系)批評を行っているのだが、東浩紀はこう言う。ジャンルの応援をするような文章を書くな、自分は何が好きで何が嫌いなのかから書け。その原点こそが社会との接点になる、と。つまり、NOなものにはしっかりNOと言え、というわけだ。ことを荒立てたくない傾向がある若者には厳しいだろうが、確かに自分の感受性を自分の肉声で語ることからしか人を動かす言語は立ち上がってこないだろう。私自身、その登壇者の音声の発し方そのものについて疑問を感じた。ほぼ一定のスピードで話し、音程が上がって息継ぎをする。音程は上がるが強度があがるわけでもない。呼吸が浅く、単調で弱々しい印象を与える話し方だった。音楽をやっているならば呼吸を深くして腹から声を出し、自分の話し方の速度、音程の変化(時に意識的に下げる)、アタックの強弱(時に十分な間をつくるなども)を意識したほうがいいだろうなあ、と思った。これはトーク後、本人に個人の感想として伝えた(ちなみにヒップホップについて質問した観客の発話にヒップホップ的音楽性を感じた。決してヒップホップ調で質問したわけではないのだが、スタッカートのような音節の区切り方、リズムと抑揚が音楽的で話す内容を引き立てていた。音楽的な話し方を身につけるとヒップホップを語る説得力がもっと得られるのだろう)。また、譲歩的発言をする度に東浩紀に叱られていた。大人になってからあんなに叱ってくれる人はいないだろうなあ、とうらやましく感じたくらいだ。東浩紀曰く、「失敗を指摘されたとき言い訳はするな。炎上すると言い訳など機能しない」さすが経験者である。さらには「話し始めて3秒で空気を変えろ」といいつつ自ら実践してみせた。これができないと僕の職業では生き残れなかったというのは言うまでもない(あくまでも昭和の頃の予備校においての話だが)。大勢の人を引きつけるように話すにははじめの数秒が勝負なのだ。
 批評は「ユリイカ」や「群像」に書くことではない、というのも納得できる。つまり世間での評価を求め仲間同士支え合って安定を得ようとするなど、批評たり得ないということだと思う。そもそも西洋哲学はソクラテスの死とキリストの死を原点としており、後者は若きメシアが権力者に殺されるという図式、前者は老人が大衆(アンチ)に殺されるという図式であり、それが原点である以上現実と接するときの悲劇は運命づけられている。東浩紀は特に前者に注目している。確かに後者は自由と権力という歴史的に繰り返されてきたわかりやすいヒロイックな構図だが、前者は一見わかりにくい。社会に影響を与える以上、変化を望まぬ一般社会(それが通常は多数派となる)から排除される危険性を伴うはずだ、ということだ。つまり、世界を切り開こうとするものは世界によって切り刻まれることを覚悟しなければならないのだ。ここに「批評とは何か」についての東浩紀の明確な解答がある。自分がものを書くときに常に座右においておきたい意識だと思った。
 話は変わるが、トークを聞きながら僕は「孤立と連帯」ということを考えていた。「連帯を求めて孤立を恐れず」というのは東大紛争時に言われたとされている有名なフレーズだ。東浩紀が批評は一人で戦うことだ、と言って塾生たちが群れようとしたがる傾向を批判していた時にこの言葉を思い出したのだ。昔、平林たい子は「しょせん、雑魚は群れたがる」と言い放った。かっこいい台詞だ。確かに批評は、自分の戦いとして自立して行わなければならないものだ。戦っている最中に相手から目を離して誰かに助けを求めるなんてできない。捕食される動物が群れることで自分を守ろうとするのは、自然界においては正当な自己保存行為であるにせよ、自ら戦いをしかけるべき批評においては認めがたいのかもしれない。しかし、人は他者と出会い異化作用を起こすことでより強くなることもあるし、集団で狩りをするのは単独行動よりも有効だ。それぞれが自立できる力を持ちつつ共闘することは有効だろう。たとえば、ドゥルーズ・ガタリは単独ではなしえなかったであろう共著を残している。ガタリがドゥルーズに異化作用をもたらしたわけだ。今の塾生が単独で天才東浩紀に追いつくことは極めて難しいだろうが、それぞれのジャンルに卓越した3人か4人がチームを作ることで全体として総和を越えて創発が起こり新たな境地を開拓することは可能だろう。反則してでも戦えといわれた彼は、いつかタイマンというルールさえ逸脱して仲間とともにリングにあがって合体した姿でたった一人の東浩紀をボコればいいのだ。
ちょっと言い過ぎた…
少し残念に思ったのは、東浩紀は何度も、内輪の世界に閉じこもるな、外の世界とぶつかれ、と言い続けていたのだが、最後になって、登壇者の一人が客席及び動画視聴者に、次のイベントは絶対見る価値があるから 「おまえら見に来い」というような言い方をした。東浩紀は視聴者観客に「おまえら」という種の言葉を使ったりはしない。視聴者に「おまえら」という種の言葉を使う時点で「おまえら」と言われて違和感のない人、つまり内輪だけを対象にしてしまっている意識が露呈されてしまう。 これは残念な発言だと思った。

 ともあれ、非常に刺激的な時間だった。ゲンロンに行くのはが、僕にとってはある種の観光、未知との遭遇のチャンスみたいなものだ。しかし、まあ、55才になると徹夜が体調的にとても尾を引くものだ、ということもまたまた実感したのだった。
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プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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