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身体で書くライティングワークショップ

先に書いた「身体で書くライティング」のワークショップでは、次々と課題が出されそれに応じて短時間で書くというワークがあったのですが、その一つに子どもの頃書いたものを思い出して書いてみよう、という課題がありました。
45年から50年ほど前のことを一生懸命思い出そうとしましたが、昔の出来事は思い出しても自分が書いたものを思い出すのはなかなか困難でした。しかし、一つ思い出すと次々に記憶がよみがえってきました。
 そして思い出したものに一貫性があることに気づいて、思い出す回路が今につながるようになっているのか、本当に昔から今まで一貫しているのか、どうなのだろう、と思いました。
 思い出したのは、概して自然と人工、曲線と直線、無菌状態と汚れのようなことを書いた記憶でした。
 「部屋から見える景色を描こう」という学校の宿題に対して、私は自分の団地のすぐ目の前にある同じ形をした団地の絵を描きました。完全に無個性で無機質な直線だけの建物を定規でサイズを測り画用紙に余白なく正確に再現しました。ただし人が住んでいる気配などはすべて排除して。その絵は先生に怒られたのですが、なぜ怒られたのかいまだによくわかりません。色を塗らなかったからか、直線しかなかったからか、手を抜いたと思われたからか…
 同じモチーフで文章を書いたこともあります。10歳くらいの頃かな。
「人工的な直線だけの道路。直角の交差点。ぼくのからだは曲線なのに。」
「かぶと虫が40匹かえりました。虫と土のにおいがします。部屋の白い壁に土をぬりつけてみました。お母さんはそれをみて、そうなのね、とだけいいました。叱られると思っていたのに。ぞうきんで拭けともいわれなかったので、その壁には土のあとがずっと残っていました」 
「木から落ちました。血をなめたら金属の味がした。」
こんなことばかり書いていたわけではないと思いますが、こんなことを書いていたということばかり思い出しました。小学校の卒業文集でも(震災でなくなってしまいましたが)、
未来の人工的に漂白された町の姿を書いていました。白、直線、人工的な緑地、音のしない車などについて。山でウリ坊を追いかけて遭難するような子どもだったので、無菌状態の環境への嫌悪感が強かったのでしょう。
大人になってからは「直角に曲がれ、覚悟を決めて」(吉増剛造だったと思う)というような言葉に感動するようになりましたが、それは自らのぬるい現状への不満が強かったからなのだろうと思います。

身体で書くクリエイティブライティング

先日「身体で書くクリエイティブライティング」小野美由紀さん主催ワークショップに参加してきました。休憩を挟んで10時間に及ぶワークショップ。
午前は身体を使って、身体の動きによる閉塞感の解放、つまり、気を発散して巡りを良くする。次に他者の身体に触れ共調し、さらに協働する、つまり身体的コミュニケーションによる自我の解放。主観と客観の境界が溶解されるような動きによる他者との融合感覚、さらには個が集まって集合体を意識し全体に同化してみることによる個の環境への融和と環境との交通といったことを順に行いました。これによって自他の障壁への意識を減らし内外に流れを作ることによる動的平衡状態の実感が得られます。
午後は、絵、音楽から感じることを即興でストーリー化するなど脳を刺激する練習。さらにそれを互いに見せ合うことで自分の環世界への自覚と多様な環世界の存在の許容を促す。私は音を聞いた時に浮かぶ色のイメージが多様なのに驚きました。私は音と色のイメージはかなり数学的に結びついたものでありそれほど恣意的なものではないと思っていたからです。
最終的に内面を言語化し表出する実践へ。内面に様々なことを抱えている人たちがそれを身体的に言語化しようと格闘することで自らが浄化され、時に同じようなトラウマを抱え込むものをも浄化していくという現場に居合わせることができてよかった。書くという行為自体の癒し効果。実は私自身も「そもそも」で一度経験していました。自己表出による浄化、話すことでも音楽でもダンスでも可能なことなのでしょう。社会の中で生きているとそれだけで澱みのようなものがたまっていくものだから、時々浄化しておくほうがいいのだろうなあ。

報告

そろそろ東進での仕事を再開するにあたって、弁護士の小倉秀夫先生に私の弁明をツイートしていただきました。以下の通りです。

東進予備校の西きょうじ先生のメッセージを、私が代わりにアップロードさせていただくことになりました。http://www.ben.li/nishi.html 拡散していただけると幸いです。

雑感

 今日は、去年突然死した友人の一周忌に行ってきた。友人が少ない自分にとっては滅多に会うことはなくとも貴重な存在だったのだと今にしてしみじみと思う。彼と出会った当時の仲間も参列しており同席で食事をした。外務省政務官、参議院議員とかテレビ局の編成局長とか、偉くなっていたが、当時の話になると若者だった頃の感触が蘇った。大学卒業後の数年、めちゃめちゃ貧しくてとんがってたなあ。そして多分、過大な自尊心と、実はその裏返しである過剰な繊細さのバランスをとりきれずにいた。
 こないだトークで会った小野美由紀さんが気になって、「傷口から人生」(幻冬舎文庫)を読んでみた。メンヘラ就活失敗、スペイン巡礼、家庭内人間関係、そしてlife is writingという実感にいたる出来事と移り変わる内面がとても正直に描かれていてとても面白かった。「メゾン刻の湯」のほうが普通にはおすすめしますが、自意識に苦しめられている人には「傷口」はおすすめだなあ。変な人生相談よりははるかにためになると思う。
以下引用(割と当てはまる人も多いかと思う)
働かないんじゃない。本当は働けないわけでもない。ただ、自分に自信が無い。何かの拍子につまづいて、社会の中に受け入れてもらえる自信がなくなっちゃったもんだから、そこから動き出せなくなる。人とのコミュニケーションを過剰に恐れるのは、最初っから自分の世界に閉じこもっているほうが、現実を見ないでいるほうが、ラクだからだ。(中略) 他人との接触によって見たくない現実を突きつけられることからの、逃避行為だ。

音楽の言語化

「羊と鋼の森」(宮下奈都)「蜜蜂と遠雷」(恩田陸)を続けて読んでみました。前者はピアノの調律師の話、後者はピアノコンクール期間に的を絞って課題曲と出場者について書き込んだ話でした。いずれにも、ピアニストの性格、曲についての解釈によって、また調律によってどれほど異なる音楽が生み出されるかが言語化されています。漫画「ピアノの森」にも同様のことが描かれていますがこちらは音楽を言語化できているとは言えないでしょう。音楽のイメージを言語化するのはとても難しいと思いますが、特に「蜜蜂と遠雷」では、「神の雫」でワインを言語化(物語化)しているよりははるかに深く描写していました。私自身、読後にこの小説で扱われていた課題曲を数人のピアニストで聞き比べてみました。確かにピアニストの解釈によってまったく異なる音楽が作り上げられているのが非常によく実感できました。簡単に手に入るCDとしては、リストのラ・カンパネルラ(著作に出てくる課題曲ではありませんが)で、「11人の名ピアニストによるリスト」があります(廃盤かも)。私はアンドレ・ワッツの演奏が一番気に入っています。大きな手で高音の黒鍵を真上からたたいている音はとても澄んだ打撃音でピアノは打楽器なのだな、と感じさせてくれます。ピアノではありませんが、パッヘルベルのカノンとジーグやモーツアルト弦楽5重奏(K516)も数十の楽団による演奏を持っていますが、しっくりくるのはそれぞれ一つだけです。しかし、演奏を言語化することはできそうにありません。自分の好みの理由すら言語化できません。また、聞き比べてみて、自分の好き嫌いの理由を考えてみようと思います。
次の次の私のサロンのオフ会では、自分の「好き」の起源を考えてみるというテーマを扱います。7月29日の予定です。
プロフィール

西きょうじ

Author:西きょうじ
予備校講師歴も30年以上になりました。いろいろなことがありましたが、様々な方向へと越境しつつ自分を更新していきたいと思っています。

参考書「英文読解入門基本はここだ」「ポレポレ英文読解プロセス50」「情報構造で読む英語長文」「リーディング&ボキャブラリー」「英文速読のナビゲーター」「英文の核」「英文法の核問題演習編」
一般書「踊らされるな、自ら踊れ」「越境へ」(共著)「仕事のエッセンス」「そもそも」「星の王子様さまを英語で読もう」

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